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ピットに帰ると、スタッフがみんな泣いていた

 ようやく消防隊が到着し、2台重なって燃えていた漆原と北野のマシンの消火作業をはじめた。その消防隊に漆原は指示を与えている。

「そっちは、もう人が乗っていないのだ。あっちの2台には、まだ人が乗っていると誘導した。本当に変なことばかりがおきていた。

 鈴木選手と風戸選手の2台のクルマは燃えつづけ、ようやく消火作業がおわり、おふたりが救出されるとき、私はみんなに声をかけてピットへ帰りました。おふたりの尊厳を守るために見ないようにしよう。観客に見られることだって、ご本人やご家族には堪え難い苦しみだ。そういう配慮をしようと、みんなに声をかけました。

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 おふたりの救出を救急隊にまかせて、ピットに帰ると、私のチームのスタッフがみんな泣いていた。どうやら私が事故死したと思っていたらしい。そして私がやったことは、ピットにあったコーラをたてつづけに7本飲んだことだった。気がつけばレーシングスーツのところどころが燃えてこげていて、私の身体ぜんたいが焼けていた。喉がからからに渇いていた」

©AFLO

 いまなお漆原は、なぜ、あのとき救出作業を見ないようにと声をかけたのかと考えるときがある。最後の最後まで救出作業に協力すべきだったかもしれない。しかしそれを見届けるのは堪え難いことであった。もし自分が、焼死体となって運び出されるとしたら、だれにも見られたくないからだろうと漆原はいま思う。

 多重クラッシュ事故で生き残ったのは、なぜなのか、ということは、漆原徳光が人生を考えるときの決定的なテーマとなった。ひとことで運がよかったのだと結論づけたくなる日もある。

 あるいはレース直前に、愛車のマーチ745BMWのハンドルのセンターにぶ厚いクラッシュパッドをとりつけたからだと考える日もある。そのクラッシュパッドがなければ、ハンドルのセンターに頭をぶつけて失神していたかもしれない。

 失神していたら燃えだした愛車とともに焼死していただろう。そうだとすれば漆原のマシンの下敷きになっていた北野元は自分のマシンから脱出することができずに、猛火に焼かれた。

 すでに書いたが、そのクラッシュパッドは「ふと思いついてレース直前に装着した」と漆原はいっている。