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「大丈夫ですか」声をあげるが返答はない

「大丈夫ですか、と声をあげたわけです。だけれどシーンとしている。静かだった。火が出ているのにですよ。北野さんを殺してしまったと思いました。私のクルマが乗り上げてしまい、つぶしてしまった下のクルマに乗っているはずの北野さんから返答がないのです」

 まだ火は燃え広がってはいなかった。激突のショックでエンジンかオイルキャッチタンクからオイルが漏れて、排気管に垂れて発火したのか、それとも熱をもったブレーキディスクに落ちて燃えているのか、それはわからなかった。ひとつはっきりしていることは、まだガソリンに引火していないことである。

 火がガソリンタンクにまわれば、爆発する。そうなればなす術がない。コクピットにいる北野も、それを救出しようとしている漆原も、無事でいられるはずがない。そのときは迫っていた。もはや秒単位の時間の問題である。

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 とっさに漆原は、マシンとマシンの隙間に手を入れて、北野のマシンのコクピット(運転席)にあるはずの消火レバーを探した。自動車レースの安全規則には、定められた容量の消火器をコクピットに搭載する規定があるが、このときのレーシングスポーツカーには、それ以上の消火装置が装備してあった。レバーを操作することで、コクピット内部に消火液が噴き出す装置である。そのレバーを探したのだ。

「そのとき私の手が北野さんの身体に当たった。あわてて消火レバーを探しているから、私の手は相当な勢いで動いていたはずです。頭に当たったのか、肩なのかわかりません。

 私が北野さんを引っぱり出したという人がいますが、そうではありません。私の手が当たった直後に、北野さんがクルマとクルマの隙間から、もがきながら脱出してきたのです。もしかしたら北野さんは一瞬、気をうしなっていたのかもしれません」

脱出直後、爆発するかのように…

 脱出した北野元のレーシングスーツの脚の部分から煙があがっていたので、漆原をそれを手で叩いて消火した。レーシングスーツの素材は分厚く織られた難燃性繊維である。レーシングドライバーは同じ繊維で編んだニットのインナースーツを着込んでいる。

 この難燃性繊維は、文字どおり燃えにくいだけで、炎を出して燃えないが、線香のように無炎燃焼する。つまり火がつけば煙を出して炭化し、じわじわと燃える。そのように燃えている部分を漆原は手で叩いて消火した。難燃性繊維と皮革を組み合わせた厚手のレーシンググローブをしていたから、それができた。

 それから10秒ほどして2台の折り重なったマシンは爆発したように激しく燃えはじめた。まさに危機一髪であった。