文春オンライン

2023/04/22

日本でポテトチップスを欲した米兵たち

 アロハ社がYさんと音四郎の共同事業だったのか、音四郎が手伝っていたにすぎないのかはさておき、会社設立の翌年、音四郎が住んでいたハワイは音四郎の母国・日本によって攻撃される。真珠湾攻撃だ。

 日米開戦によって、当時アメリカに住んでいた日本人はほどなくして強制収容されることになる。音四郎もハワイからロサンゼルス、ニューメキシコ、テキサスなどの収容所を転々とさせられた。他の在米日本人同様、大きな受難を被り想像を絶する辛酸を嘗めたわけだが、実は先の「ハワイにおいてけぼり」が結果的に音四郎の命を救っている。

 実は開戦後、もともと音四郎が乗務員だった秩父丸は、ソロモン諸島近くを航海中にアメリカの魚雷攻撃を受けて沈没、乗務員が全員死亡してしまったのだ。件の一等運転士の忠告は正しかった。

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 1945(昭和20)年、終戦によって音四郎は解放される。開戦当時ハワイにいた日本人の6~7割は再びハワイに戻っていったが、音四郎は日本への帰国を選んだ。

 妻子とともに横須賀港に到着した音四郎。しかし故郷の和歌山に戻ったものの、ろくな仕事はない。極貧生活が続き、栄養失調で死にかけた。

 困っていたところ、終戦後に来日したハワイ時代の知り合いから「東京に出てこい」という手紙が来る。こうして音四郎は1948(昭和23)年、一念発起して上京し、幾多のブローカー業で生計を立てはじめた。やがて知り合った進駐軍の米兵たちから、「ポテトチップスを売ってはどうか」と提案される。

 戦後、駐留米軍のアメリカ人たちは、故郷で食べつけていたポテトチップスを欲したが、日本には売っていない。とはいえ、当時は油処理や保存性の問題から、故国で製造されたものを輸入するわけにはいかなかった。そこで、日本国内で製造し、納品させるという形式をとっていたのだ。

 一般財団法人いも類振興会が2013年に発行した「いも類振興情報115号」によれば、ポテトチップス製造業者の選定は、音四郎が上京した1948年頃からGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の要望によって入札制となり、当時入札参加メーカーは4社あったという。ただし当初の販売ルートは全量がGHQへの納入だったので、一般市場には出回らなかった。

 そういった状況下、音四郎は「最新式の自動式の機械」をアメリカから取り寄せようと司令部に許可をもらいに行ったが、輸入の許可は与えられなかった。そこでハワイに残っていたYさんに頼んで、

「ジャガイモの水を切る機械の代用品として洗たく機の円(ママ)心脱水器2~3台と、回転しながらジャガイモを切るスライサー、そしてジャガイモを揚げるフライヤーとして直径1メートルくらいの鉄の釜を作って送ってもらった。釜はそれを見本として日本でいくつか作らせた」(「オール生活」1983年7月臨時増刊「ハワイから里帰り 国産ポテトチップスの“生みの親”」)

 こうして1950(昭和25)年5月、音四郎は東京・牛込納戸町にポテトチップスの製造工場を作ってアメリカンポテトチップ社を立ち上げ、「フラ印アメリカンポテトチップ」の販売を開始する。価格は35g で36円。当時、喫茶店のコーヒーが1杯25円程度、映画館の入場料が80円程度だったことを考えると、現在の物価に換算して800円前後といったところか。現在の国産ポテトチップスが1袋50~80g台で概ね100円台に収まることを考えると、当時の「フラ印」はかなりの高級品だったわけである。

 音四郎は当初「フラ印」を駐留米軍に売り込み、良い商売になったが、終戦から時間が経つにつれ米軍は引き揚げていったため、深刻な顧客不足に悩むことになる。結果、日本人客の開拓は急務となったが、これが大苦戦する。

 ジャガイモ自体が一定数の日本人に嫌われていたのだ。