戦後の日本人に嫌われていたジャガイモ
先述した「オール生活」の音四郎インタビューには、当時の状況についてこのような記述がある。
「あいにく日本人はポテトチップスなんて食べたことがないし、おまけに当時、ジャガイモはサツマイモより下位にみられていたので、けんもほろろ。『なんだ、ジャガイモなんかで作ったものなんか、持ってきてもらっては困るよ』と」
日本では江戸時代に伝来していたジャガイモだが、特に太平洋戦争中はサツマイモやカボチャなどとともに米の代用食として節米料理に利用された。つまり、白米が食べられないからと仕方なく食べていた。それゆえ「もうイモなんか食べたくない」という日本人が一定数いたのである。
農学博士である山本紀夫の著書『ジャガイモのきた道│文明・飢饉・戦争』(岩波新書、2008年)には、1943年生まれの山本より「10歳くらい上、昭和10年前後に生まれた人たち」が「来る日も来る日もイモを食べて空腹をしのぎ、生きのびた経験から、イモに対して嫌悪感をもつ人が少なくない」と書かれている。
山本はアンデス文明において果たしたジャガイモの役割を重視する立場を取るが、それに対して厳しく批判する研究者もいるという。彼らは山本に言った。「ジャガイモなんか、イモなんか食って文明ができるか。戦後の代用食のことを思い出すと、あんな、サツマイモ、ジャガイモでは力が入るか」(同書)。大変な恨み節だ。
前出「いも類振興情報115号」には、「昭和30年代前半まで国民のジャガイモに対する関心は極めて低く、また戦時中における米の“代用食〞というイメージ(が)色濃く残っていたため、インスタント食品のラーメンやコーヒーのように(ポテトチップスが)脚光を浴びて登場したわけではなかった」とある(カッコ内は筆者追記)。
筆者がポテトチップス関連の取材記事をウェブに発表した際にも、これらを裏付ける読者からのコメントがいくつか寄せられた。「戦中派の祖父はイモとカボチャだけは食べたくないと言っていた」「農家の祖母はジャガイモを畑で作っていたが、祖母自身はジャガイモが嫌いだった」など。
ただでさえ代用食としてあまり良くないイメージがあるジャガイモなのに、それで作ったおつまみが非常に高価であることに納得できる日本人は、当時少なかったのかもしれない。
だが、音四郎は諦めない。試食用サンプルを持ってホテルのビアガーデンなどを回り、粘り強く営業した。そこでの売り文句は、「アメリカではビールといえばポテトチップス、ポテトチップスといえばビールというほどこの2つは切って離せないものだから、日本でも必ず売れる、ビールの売り上げ増にもつながる」。そうやって少しずつ販路を開拓し、ホテルやデパート、高級スーパーや高級バーなどとの取引を増やしていった。