ジャガイモを薄切りにして油で揚げ、塩をはじめとした各種調味料をまぶしたもの。それがポテトチップスだ。日本においてポテトチップスは、スナック菓子売り場でもっとも良い場所に陳列されていて、その種類は目移りするほど豊富になっている。それほどまでに日本人にとって身近、かつ手放せないおやつであるポテトチップスが、 一体いつ日本に登場したかご存知だろうか。
ここでは、ライター、コラムニストの稲田豊史氏が、ポテトチップスを軸に戦後食文化史と日本人論を綴った『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』(朝日新聞出版)より一部を抜粋。日本におけるポテトチップス製造の元祖・濱田音四郎氏について紹介する。(全2回の1回目/2回目に続く)
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船に乗り遅れた濱田音四郎
1911(明治44)年、和歌山の網元の子として生まれた濱田音四郎は、18歳で地元の旧制中学を卒業後、叔父を頼って横浜へ。横浜にある高等海員養成所に通ったのち、日本郵船に入社する。そして1934(昭和9)年、音四郎が22歳のとき、2度目に乗組員として乗船した豪華客船・秩父丸の航路で事件が起きた。
寄港したハワイのホノルル。当地には地元・和歌山からの移住者や音四郎の親戚がたくさん住んでいた。音四郎は彼らを訪ね、故郷の話に花が咲く。
ところが、そうこうしているうちに音四郎を置いて船が出港してしまう。いつもと違って1時間早く出航する掲示を音四郎が見落としていたのだ。
仕方がないので、音四郎は次に秩父丸が寄港するまでハワイで暮らすことにした。
1カ月後、秩父丸が来航。一等運転士に事情を話したが、彼の言葉はあまりにショッキングなものだった。秩父丸には代わりの船員がもういるので、音四郎のポジションはないという。横浜に戻ったとしても、南方行きの貨物船くらいしか乗船することはできない。元のポジションに戻るのに5年はかかる。そう告げられてしまう。
かなり気の毒な仕打ちだが、音四郎はここで信じられない決断を下す。なんと、帰国せずハワイに残ることにしたのだ。一等運転士の「日本とアメリカはいつ戦争を起こすかわからないし、始まったら命の保証はない。このまま残ったらどうか」という忠告が効いた。
ハワイに残った音四郎は、働きながら英会話学校に通う。そして1940(昭和15)年、28歳のときに現地の友人とともにポテトチップスの製造販売を始めた。