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「イモなんか食って文明ができるか」“ジャガイモ嫌いの日本人”に800円の高級ポテトチップスを広めた男の超奮闘

『ポテトチップスと日本人 人生に寄り添う国民食の誕生』より #1

2023/04/22
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製造販売に乗り出した経緯

 このときの経緯は、音四郎が存命中に雑誌で行われたインタビューで確認できる。以下は音四郎の言葉ではなく、記者による地の文だ。

「友人のYさんと2人で、『アロハ』という会社をつくって、ポテトチップスの製造販売に乗り出した。当時、ハワイにはポテトチップスの会社は2つしかなかった。その1つに働きに行ってたYさんが、ポテトチップスがよく売れるのを見て、濱田さんに『ポテトチップスをやったらどうか』とすすめてくれたからである。

『よし、2人で始めよう』ということになり、Yさんが『どういう油でどのくらいの温度で揚げるか、ジャガイモはどのくらいの厚さに切るのか』といったようなことを、一生懸命調べあげてメモにする一方、濱田さん自身もその会社に時々顔を出しては研究したりした。この研究に半年間を費やしたという」(「オール生活」1983年7月臨時増刊「ハワイから里帰り 国産ポテトチップスの“生みの親”」)

 これを読むと、友人であるYさんは勤めていた現地のポテトチップス会社を辞めないまま、その会社の製造ノウハウを音四郎に「流して」いたことになる。「濱田さん自身もその会社に時々顔を出しては」とあることからも、社員であるYさんが外部の人間である音四郎を会社に入れて、堂々と製造ノウハウを「学ばせ」、のちに自分たちで起業したとも解釈できる。

写真はイメージです ©iStock.com

 同記事によれば、「アロハ」設立後は、「製造販売をスタートさせると、白人のセールスと異なり、小さなところにも売り込みに行くから、よく売れるようになった。人も増やして14~5人使うまでになった」とある。こうしてふたりの会社は軌道に乗った。

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 ただ、音四郎がこの19年後の2002年に受けたインタビューからは、別のニュアンスが汲み取れる。

「ハワイにいたころ、友人がポテトチップスの会社をしていて僕もよく手伝っていたので」(「海外移住」第605号/2002年6月「特集 フロンティアスピリット ~異文化体験とビジネス成功法~」)

 と書かれているのだ。

 ここで言う「会社」とは、友人(「オール生活」におけるYさん)が勤めていた会社ではなく、現地で起業した会社(アロハ社)だと思われるが、こちらからは「音四郎が共同事業者である」ニュアンスは読み取れない。Yさん主体で立ち上げた会社を、音四郎が手伝っていたにすぎないという書き方だ。しかも「オール生活」と違い、「海外移住」にはYさんがかつてハワイのポテトチップス会社で働いていたという記述はない。

 音四郎の記憶違いか、2編集部がそれぞれに汲み取ったニュアンスの違いか。邪推するなら、2002年のインタビューでは、Yさんが「ポテトチップス会社に勤めながら、その完全競合になるビジネスの設立準備をしていた」ことを隠したかったのかもしれない。