おれは怒鳴ってやった。そしたらそいつ、今、おれを殴ったら大変なことになると思ったんだろうな。何たって公務員だ。暴力をふるったなんてことが知られたら即刻、首だ。自分の載った新聞記事でも頭をかすめたんだろう。途端に振り上げた手をおろすこともできずにワナワナふるわせて、そのままの姿勢で固まっていたよ。その滑稽だったことといったらなかった。
「こいつを外へ放り投げようぜ」
「口ほどにもない奴め。お前が何もしないならおれがやってやる」
おれはそういうと、ストーブの周りにいた常連の登山者に向かって「こいつを外へ放り投げようぜ」といった。すると、5、6人いた常連も「やっちまおうぜ」といって立ち上がり、そいつを横にして抱き抱えると、斜面から落としてやったんだ。男はゴロゴロ転がっていったものさ。そして、途中で止まっている。まるでカエルが裏返しになったように仰向けに倒れていた。
驚いたことに、奴の仲間は完全に無視していた。だれも助けようとしない。よほどあきれられていたのか、それとも仲間意識がなかったのか……。
いずれにしろそいつは、その夜、山小屋には戻ってこなかったな。あのヤクザと同じように頂上にある避難小屋にでも行って寝たようだ。
しかし、それだけではおれの怒りはもちろん納まらない。数日後、町にボッカするために下りたとき、たまたま知り合いの警察官に会った。その人はあいつの上司に当たる人だった。おれが事情を話すと、その人は申し訳なさそうに頭を下げながらこういうのだ。
「あなたのところでもやりましたか」と。
おれは笑ってしまった。が、冷静に考えると、ああいう奴が警察官をやっているのかと思うと、あの白い背広のヤクザ以上に怖いと思ったものである。どうせ怖い思いをするんなら、足のある美人の幽霊でも出てきてほしいもんだ。
岡部仙人 1940年、東京都奥多摩町氷川に生まれる。幼少の頃から奥多摩の山々を歩き、三条の湯、町営雲取奥多摩小屋などで約40年の小屋番生活を送った。ギターと吹き矢が得意。現在は信州で放浪している。著書に『きょうも頂上にいます』がある。なお、雲取奥多摩小屋は2019年に閉鎖された。