「突然で悪いけどよ、今晩泊めてくれないか……」。標高1800メートル近い山小屋に突如、現れた「上下真っ白の背広を着た男」の正体とは?
山で暮らす人ならではの信じられない実話を丹念に拾い集めた『山小屋主人の炉端話』より、奥多摩・町営雲取奥多摩小屋の岡部仙人(おかべ・せんにん)さんのエピソードをお届けする。(全2回の2回目/前編を読む)
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突然の来訪者
山で何が怖いってそりゃ、やっぱりお化けより人間だな。お化けはいないと断言してもいい。
ときどき、テント場にテントを張っている登山者が血相を変えて、
「お化けが出た、テントの周りを夜中に歩いている音がした」とやってくることがある。
おれはいい経験をしたな、ときどき出るんだといってやる。途端に若い登山者はべそをかいてもう来ないといいだすんだ。
けれど、実をいうとそれはお化けでもなんでもなく、種を明かせばただのカエルなんだ。カエルがテントの周りを歩いている音で、それがまるで人間が歩いているように聞こえる。ドタッドタッと夜中だからよけい聞こえる。登山者が不気味さに我慢しきれず、意を決してテントの入り口を開けると、だれもいない。そりゃあ、いるわけないよ。地べたをカエルが歩いている音なんだからさ。山で怖いというのは意外とそんなものみたいだ。
しかし、その一方で生身の人間はマジで怖い。おれもこの山小屋に入って20年になろうとしているけれど、いつも人間ほど怖いものはないと思う。
なかでも3年ほど前だったかな、あれほど怖い思いをしたこともなかったな。そう、第一、姿格好が不気味だった。
いっておくけど、ここは標高1800メートル近い山のなかにポツンと建つ正真正銘の山小屋だ。東京で一番高い山、雲取山の頂上直下にある山小屋になる。なのに人の気配がしたのでひょいと見ると、戸の外に背広を着た男が立っているんだ。それも上下真っ白の背広を着て……。あわてたのなんのって。
それまでおれはストーブで夕食用のアジを焼いていて、「これは裏の沢で捕ってきたアジだ。脂がのってうまいぞ」などといって、顔見知りの登山者をからかっていた。それをそばで聞いていた新参の登山者が「へぇ、裏の沢でねぇ、美味しそうですね」と大まじめな顔をしていうもんだから、おれも吹き出してしまう。
そんなときだよ、戸の向こうにその男が立っていたのは。一瞬おれは凍りついたね。いくら足元に東京の夜景が見えるからって、白い背広を着た男が立っているなんてちょっと信じられなかった。前例もあるわけがない。ストーブの周りにいたみんながシーンとなってしまい、ジュージュー、アジが焼ける音がするだけだった。
「突然で悪いけどよ、今晩泊めてくれないか……」