「息子さんは児童相談所が保護しています。明日以降、児童相談所からも連絡が行くと思いますのでよろしくお願いします」
そして山下さんが急に思い出した様子で、今度は私にこう聞いた。
「あ、こちらの葬儀屋さんとかご存じです?」
◆
依存し合っていた、母と兄
兄は、母が膵臓(すいぞう)がんだとわかった直後に、私たちの生まれ故郷から宮城県多賀城市への転居を決めた。7年前のことだ。
これにはさすがに驚いた。何せ兄と母は、まるで運命共同体のように常に近くで暮らしながら、互いに精神的に、金銭的に、依存し合って生きてきたからだ。
父の死後、母は何でも兄の言う通りにした。たとえば、それまで40年以上経営してきたジャズ喫茶を改装してスナックにすればいいという兄の突然のひらめきに従い、母は大金をかけて店を改装し、若い女性を何人か雇い入れた。私からすれば、それまで長い年月をかけて築き上げてきた私たち家族の思い出を、父が愛した場所を、一瞬にして消されたほどの衝撃だった。
スナックの経営は間もなく破綻したが、その後も母は兄を盲信し続けた。同時に、さまざまな形で兄を援助していた。元妻の加奈子ちゃんと離婚してからは特に、母の住む実家に立ち寄っては金の無心をすると母から聞かされていた。母が遺した日記にも、その苦悩は綿々と綴られている。
それなのに、母に残された時間がそう長くないとわかった直後に転居を決めるとは、母を捨てるも同然のことと私には思えた。
母はよく、「あなたは冷たい人だけれど、兄ちゃんは優しい子だから」と言っていた。
そして、「兄ちゃんには寂しい思いをさせたから、わがままになっちゃったのよ」と、言いわけのように付け加えた。寂しい思いをさせた理由は、ずいぶんあとになってから母に聞いた。私が子どもの頃病弱で、入退院をくり返していたために、兄は親戚に預けられることが多かったらしい。兄はどんどん寂しがり屋になり、いつも泣いていたそうだ。
本当にすべて私のせいだったのだろうか。私が病弱だったから、兄は今のような人間になったとでも言うのか? 私は疑問に思い、母に反発した。すると母は必ず、このセリフで私の言葉を封じ込めた。
「あんたは何も知らないだけ」
兄は確かに優しいところもある人だった。
動物が好きで、子ども好きで、涙もろい人だった。しかし、次々とペットを飼っては、ろくに世話もせず、あっという間に死なす人でもあった。涙もろさは、欺瞞(ぎまん)であり、まやかしだった。噓ばかりつく人だった。
乱暴で、人の気持ちが理解できない勝手な男。
母が兄をどう庇(かば)おうとも、私からすれば、そんな兄だった。
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