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厳しい少年院で学んだこと

 僕が押送されたのは、京都にある宇治少年院だった(現在は閉鎖)。関西では一番しんどいことで有名な少年院だ。

 中での生活は、ほとんど軍隊と言ってもいいほど厳しいものだった。

 自由に会話をすることも許されなかったし、毎日運動の時間は腕立て伏せやスクワットを何百回もやらされた。水泳の時間には「足つくな!」「甘えとんのか!」と厳しい声が飛んだ。僕の人生で一番頑張った時期で、変な言い方だがある意味僕の青春時代だ。

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 お世話になった先生もたくさんいる。

 たとえばI先生は厳しさと優しさを兼ね備えた、本当に良い先生だった。I先生はいつも僕に試練を与えてくれた。それは「腕立て伏せ100回」とか本当に厳しいものだったけど、僕が頑張って達成すると涙を流して喜んでくれた。

 少年院の中でも問題児だった僕のことをとにかく気にかけてくれて、こっそり読書室に連れていってくれて話をさせてくれたこともよく覚えている。

 先生には当時4、5歳くらいのお子さんがいた。

「いつも仕事で帰りが遅いから、早く飯食わせてって息子に怒られんねん」

 困ったように笑う先生の顔が印象的だった。

 生活を犠牲にしてまで、どうしようもない僕たちに尽くしてくれていたということだ。とても大きな愛情を感じたし、僕もI先生のことを思うときつい少年院の生活もなんとか乗り越えようと思うことができた。

 他には、K先生のこともよく覚えている。一番厳しかったが根は一番優しい人だ。役割を与え、集団をうまく回していくのが得意な先生だった。

 少年院には「週番」と呼ばれる、いわゆるリーダーのような役割が存在する。通常は2週間に1回のペースで交代するのだが、僕はその週番を4カ月も連続でやらせてもらった。

 今思えば、問題を起こして懲罰房に行くことも多かった僕に対して、集団を率いるための広い視野や責任感を身に付けさせようとしてくれていたのかもしれない。結果的に、僕はリーダーとしての自覚を持って行動できるようになったように思う。

悪名』(彩図社)

 少年院での生活は厳しかったが、だからこそ感謝もあった。今の日本は何事に対しても甘い社会になっているかもしれないが、最終的にそれでは生きていくことはできない。厳しさに直面することで学ぶこともあるのだ。

 しかし、この少年院で僕はまたやらかしてしまう。