その心の間隙を縫って入り込んできたのが、ラジオの仕事で関わりを持った制作会社「アイセック」社長の木村恵子で、のちに木村は明菜の暴露本『中森明菜 悲しい性』(講談社、1994年)を書くことになる。
一時は明菜が「お母さん」と呼ぶほど近い存在だったが、マネジメントの主導権を握ろうとする木村の登場は、その後の迷走に拍車を掛けていく。
一縷の望みは「小室哲哉の要望」
一縷の望みは、当時音楽プロデューサーとしてブレイク寸前だった小室哲哉から持ち込まれた「明菜に曲を提供したい」という要望だった。
栃内は、小室の早実時代からの友人で側近だった喜多村豊とはかねてからの知り合いで、彼を通じて齎(もたら)されたものだった。栃内は2人のコラボを実現させ、小室が明菜に書いた「愛撫」を移籍第1弾のシングル曲にしたいと考えていた。
「愛撫」には松本隆の詞がつけられ、レコーディングまでは順調に進んだものの、この曲がシングルとして発売されたのは、それから約2年後のことである。
明菜を取り巻く環境は、事務所の経営が抜き差しならない状態になったことで、またしても空転を始めていったのだ。栃内が当時の内情を打ち明ける。
「明菜とMCAビクターは契約金3億4000万円で移籍に合意と報じられましたが、私が確認したのは、無くなっていた最初の5000万円を含めても約1億7000万円。資金が回らなくなり、給料の遅配が始まると、明菜に『栃内が契約金を使い込んだ』と吹き込む者がいて、彼女もその話を信じ込んでしまった。私が明菜のカネで店を出したとまで言われましたが、そんな事実は一切ありません。ただ、彼女と次第に連絡が取れなくなり、私だけが悪者になっていました」
「みんな私を利用して商売する」
明菜は周囲に、栃内への怒りを隠さず、「最初はいいことを言っていたのに騙された」「みんな私を利用して商売する」と不満をぶちまけた。
栃内が社長になってからわずか1年で両者の関係は破綻し、明菜は事務所を離れた。主を失った「コンティニュー」は混迷を続け、その後、96年に破産。栃内は弁護士の力を借りながら数年をかけてファンクラブを整理し、ビクターからは訴訟を提起された。
すべての責任を1人で背負う形になり、借財を抱えて、外資系の保険会社の仕事をしながら債務整理に追われる日々のなか、偶然、白金のタイしゃぶ屋で明菜と遭遇した。彼女は栃内を物凄い形相で睨みつけ、無言で去っていったという。