「またダマされるんじゃないか」
彼女はまたさらに孤独の鎧を身につけ、限られた人としか接点を持たなくなっていく。その混沌とした日々を象徴するかのように、当時、彼女が受けたインタビュー記事には「裏切り」や「騙された」という強い言葉がたびたび登場する。
「新しいスタッフとめぐり会って、今度こそ大丈夫、と思うんだけど、またダメで、その繰り返し。普通のコだったらちょっと生きていられないよ、きっと。もう人間不信なんてもんじゃない。またダマされるんじゃないかって、恐怖心にとらわれちゃってるから……。きっと、あと20年くらいしないと、不信感は癒えないと思う。……お金をね、持っていかれるのはいいんです。でも一緒に心を持っていかれるのが耐えられないの」(『With』、93年11月号)
95年1月号の『マルコポーロ』では、「歌手になっておカネを稼ぐようになったら、騙されたり裏切られたり……、そんな思い出ばかりです」と吐露した後、「私は天涯孤独で生まれればよかった。正直なところ、今もそう思っています」と明かしている。
さらに近藤との過去の恋愛と自殺未遂についても触れ、「騒動に巻き込んで大変な迷惑をかけて申し訳ないことをした、そんな思いだけでした。だから、数カ月後に彼とはお別れしました。今、私の気持ちの中には尾を引いているものは何もありません。未練なんて……。女性週刊誌などは、おもしろおかしく私の心理を書いてくれてますけどね」と答えている。
暴露本騒動の渦中で
当時、彼女が最も信頼を置いていたのは、20代前半に、六本木のチャイニーズレストランで、客と店員として出会って以来の知り合いだった江田敏明。2人は交際中だった。
江田は、93年に明菜が設立した個人事務所「NAPC」の副社長としてマネジメントにも関わるようになった。明菜はこの頃、「お母さん」と呼んでいた制作会社の木村から契約不履行を理由に損害賠償訴訟を起こされ、彼女が書いた暴露本の騒動の渦中にあり、その混乱を収めるために江田に助けを求めたのだ。
NAPCには当時、明菜が親しくしていたフジテレビの元プロデューサー、渡邉光男や長年にわたって彼女のスタイリストを務めた東野邦子も役員に名を連ねていたが、そのうちに明菜と袂を分かった。彼らもまた口を噤んだまま、明菜のもとを去っていった。
明菜が華々しい活躍を見せた80年代は日本経済が空前のバブル景気に沸き、90年代の足跡が聞こえた頃から、右肩上がりを続けた株価と地価が下落してバブルは崩壊した。その盛衰と軌を一にするように、明菜の人気にも陰りが見え始めた。
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