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フェイフェイの父が積極的に関わっていた中国での民藝保存運動

 来日したばかりのフェイフェイには忘れられない思い出がある。はるばる日本にやってきた息子へのプレゼントとして、父は初めて自動販売機で牛乳を買ってくれた。決して豊かでない暮らしを送る家族にとって最高の贅沢だった。冷たく美味い牛乳はやがて飲み終わり、きれいなガラスの牛乳瓶だけが残る。中国では見たこともない透明なガラスだった。美しいガラスに魅せられたフェイフェイは、捨てたくないと父に哀願し家に持ち帰った。

 フェイフェイが長じるにつれ、父の描く抽象画は徐々に売れるようになっていった。日本はバブルと呼ばれる時代がやってきていた。また、父が親戚とやっていた仕事も順調に伸びた。生活は豊かになっていった。親戚の仕事の関係で南アフリカに引っ越したこともあったが、10代の大半は日本で過ごす。フェイフェイの成績は優秀だった。早稲田実業高校に進学し、そのまま早稲田大学に入った。在学中に英オックスフォード大学ペンブルックカレッジに留学し、哲学と人類学を学んだこともある。早稲田を出たフェイフェイは新たな道を模索し、北京中医薬大学院に進学する。若者らしく自分探しの旅に出ていた。

 父は中国抽象画の旗手と目される一方で、経済発展する中国において失われていく文化的な町並み、風景などの保存運動にかかわるようになっていた。そのひとつが上海中心部から車で2時間ほどのところにある「周荘」である。およそ900年余り前の北宋時代に水郷としての原型ができたといわれ、今もその面影を色濃く残すこの地域の景観保存と日本から影響を受けた民藝運動にフェイフェイの父は積極的に関わっていた。

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英国王室で課題となっていた中国との関係

 この動きに関心を示したのが英国王室と関係が深い香港の実業家にして慈善家であるデイビッド・タンだった。香港のファッションブランド「上海灘」(シャンハイタン)の創業者としても知られるデイビッド・タンは、英国の王室ばかりか、欧米の政界、財界にも顔が利く大立者でまた英国王室から「ナイト」の爵位も下賜されていた。

 フェイフェイの父の運動がデイビッド・タンの目に止まっていた、ちょうどその頃、英国王室では目覚ましい経済発展を遂げる中国との関係をいかに構築していくかが大きな課題になっていた。特にエリザベス女王の後を継ぎ、将来国王となるチャールズ皇太子と中国との接点を模索していた。

チャールズ皇太子(当時)と江沢民 ©時事通信社

 1997年の香港返還の時、エリザベス女王の名代として式典に参列したチャールズ皇太子は、列席した当時の国家主席・江沢民について、

「なんとおぞましい。古びた蝋人形のようだ」

 と日記に記していたことが後日判明し、中国側が猛反発するという事件があった。一時は外交問題への発展が危惧されるほど中英両国、特に中国政府と英国王室との関係は断絶に近いほど険悪な状態になっていた。