一筋縄ではないライバルの歩み
輝さんの「終生のライバル」といわれた高橋圭三。彼の歩みもけして一筋縄ではない。
大正7年9月9日、岩手県花巻市生まれ。昭和17年12月に札幌放送局赴任。戦後は21年1月8日に東京に異動し、「のど自慢素人音楽会」を担当する。しかし、その後思わぬ事態に見舞われる。昭和25年1月、ラジオ放送劇「エリコとともに」で紹介する詩を収録していたときだった。
「それを読んでいるうちに、もうどんどん熱が上がってきまして、油汗が出て、どうやら、その詩を読み終わったところで倒れちゃったらしいです。私はもう意識がありませんでしたが、そのまま慶応病院に運ばれまして、丸2年半、慶応病院で過ごしました」(前出『私の放送史』)
肺結核であった。圭三は、次兄を結核で亡くしていた。
「私としては、これで一巻の終わりかな、と思いました。結核ですからね。当時は、結核といえば不治の病で治らないとされました。(中略)一緒に入院していた人たちが、ずいぶん死にましたね」(同前)
当時、圭三さんは31歳。NHKに入局し、札幌放送局を経て、満を持して東京の大舞台にやって来て5年目の春だった。
「当時、いまのJRを省線といったんですが、あそこ(慶応病院)の下をいまのJRが走っているんです。それをベッドから指をくわえながら見ていました」(同前)
さらに時代は、ラジオの全盛期。魅力的な番組が次々に企画され、人気を集めていた頃だった。
NHKの「怪物番組」が生まれた頃
入院した翌年の昭和26年1月3日には、第1回「紅白歌合戦」が放送された。司会は先輩の藤倉修一アナウンサーが担当した。正月用の特別番組として放送されたこの番組は予想以上の人気を集め、翌年の正月にも藤倉の司会で放送された。これがのちに「怪物番組」として今日まで続くとは、誰も予想していない。
さらに、その年から同期の輝さんが担当する「三つの歌」も放送を開始した。そうした動きを、圭三はどう見ていたのか。
「焦りがないと言ったら嘘です。確かにありました。というのは、電波の世界の変革期ですから、どんどん変わっていきますね。そうすると、とり残されたという私の実感というものは拭えませんね。やることなすこと、みんな新しい番組ですからね」(同前)