闘病時代にまいた種
圭三さんは、早慶戦があると病院を抜け出して近くの神宮球場に出かけている。そして、ふだん病室では読書に熱中した。雑読だったらしいが、メディアの仕事をする上で、このときの吸収は大きかったろう。結果的に「日頃の稽古」になったと、本人もふりかえっている。
そしてもうひとつ、大きな原動力となったのが輝さんの存在だった。
「そのころ、宮田君の「三つの歌」が出てきましたね。これがバアーッと受けます。ははあ、なるほどな。こういうやり方はいいな、なんて思うじゃないですか」(同前)
ライバルの活躍を前向きに受けとめ、来る自分の起爆剤にしていったのだ。入院中の2年半、来し方行く末についてさまざまな思いをめぐらせたことだろう。
のちに圭三さんが見せた時代を先取りするかのような華々しい活躍は、このときの闘病時代にまいた種が見事に花開いた結果なのかもしれない。
復帰後の圭三さんはまさに破竹の勢いである。
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昭和27年 ヘルシンキ五輪出張中の和田信賢がパリにて客死。それを受け恩師が担当していたラジオ「話の泉」を引き継ぐ。
昭和29年 テレビ「親子クイズ」の司会。
昭和30年 テレビ「私の秘密」司会。この頃からテレビで司会者としての人気が定着。
昭和36年 NHK退職。以後1年間専属契約。
昭和37年 日本初のフリーアナウンサーに転身。
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お互いに研鑽し合う、いい関係
戦後のテレビ全盛時代の中で、2人を取り巻く環境は大きく変わっていった。しかし2人は互いを意識し合いながら成長し、飛躍していったと藤倉修一はいう。
「竜虎の争いと2人の関係は形容されていたんですが、お互いに研鑽し合って、いい関係だったなと思います」(「週刊読売」平成2年8月5日号)
そして、2人に共通する点について藤倉はこう指摘する。
「ざっくばらんに聴取者の懐に飛び込んでいたところ。放送は必ず聴いている人、見ている人がいる。だから、その方に話しかけて、受け答えを待つ。2人は必ずそれをやっていた」(同前)