山本健一たちが鶴田の宿泊先である大阪市天王寺区の旅館・備前屋に乗り込み、鶴田をウイスキー瓶やレンガで殴りつけ、頭と手に11針を縫う大ケガを負わせたのである。
山本健一は懲役3年の実刑を打たれ、加古川刑務所に収監されるのだが、ここに当時、天才少女として人気絶頂だった美空ひばりが慰問に訪れるのだ。
慰問に訪れただけでも大騒ぎだが、美空ひばりは舞台から、「健ちゃーん! お元気ですか? 身体に気をつけて、事故なくお務めして、元気に帰ってきてください。待っています!」と手を挙げて呼びかけたものだから、会場は騒然となり、「ヤマケン」は全国のやくざに名前を売ることになる。
美空ひばりの慰問は田岡三代目が山本健一のために差し向けたものだ。美空ひばりは神戸芸能社の看板スターで、ひばりは三代目を「おじさん」、三代目はひばりを「お嬢」と呼んでかわいがっていた。三代目は、ひばりを慰問に行かせることで、身体を張った山本健一の労に報いたのである。芸能界は「鶴田浩二襲撃事件」に震撼し、神戸芸能社は芸能界で不動の立場を築くのだった。
いまはコンプライアンスが厳しく、芸能人はやくざと一緒に酒席をともにしただけでも芸能界から追放される。昔は息がかかった芸能人を慰問に入れることで入れた親分の力量を見せたのである。山本健一は出所すると、田岡三代目から盃をもらって直参となり、初代山健組を結成する。
島倉千代子との関係を直接尋ねると…
さて、その島倉千代子の慰問である。のちに二代目山健組若頭になる松下靖男(五代目山口組直参、初代松下組組長)が島倉について、「うちの盛力が島倉千代子の男やで」と教えてくれたことがある。
真偽のほどはわからない。当時、島倉千代子は初代山健組の山本健一組長とつきあいが深かった。同組若頭補佐で盛力会を率いてた盛力健児(初代山健組若頭補佐、盛力会会長)が山本健一組長についていた。松下も盛力も同じ山健組であることを考えれば、あながちヨタ話とも思われなかったが、私が出所してから盛力会長に島倉千代子との関係を直接尋ねると、「ちゃうで」と言下に否定した。
真偽はともかく、そんな噂が立つほど盛力会長は当時、山本健一組長にべったりついて全国を回っていたのだった。
ちなみに盛力会長は1975(昭和50)年に勃発した「大阪戦争」(山口組vs.松田組)において最大の功労者である。殺人罪で懲役16年の実刑判決を受け、宮城刑務所に服役している。2013(平成25)年、みずからの苛烈なやくざ人生と山口組の暗闘劇を赤裸々に記した自叙伝『鎮魂 さらば、愛しの山口組』(宝島社)を出版して話題になったのは記憶に新しい。
慰問に来た島倉千代子は『唐獅子牡丹』や『無法松の一生』『人生劇場』『兄弟仁義』といったやくざの歌ばっかり歌った。彼女の持ち歌には『この世の花』や『東京だョおっ母さん』『からたち日記』『愛のさざなみ』などミリオンセラーが目白押しだが、それらは歌わず、あえてやくざが好む歌にしたのだろうと、聴きながら私は思ったものだ。
このとき私の目を引いたのが島倉千代子のマネージャーとしてついてきた細木数子である。島倉と同い年だとのちに聞いたので、当時、2人は40歳前後ということになる。