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「留五郎」は富五郎の誤り。電話は日本では1890年、東京―横浜間でサービスが始まっているが、事件当時はまだ一般社会では珍しかったはず。富五郎は相当羽振りがよかったのだろう。

実は3日前の新聞でも…

 この事件、実は3日前の5月27日付読売に「自殺者の身許」の見出しで記事になっていた。「山村に商人体(てい)の男の首くくりがあったので、新宿署で他殺の疑いを起こし、一昨日(25日)、警視庁から医師を招いて検視したが、完全な自殺と分かった」と記述。富五郎の住所、氏名も明記し「精神病の系統があって先頃から治療中だった」とした。

当初は「自殺」とした新聞も(読売)

 30日紙面でも報知、萬朝報、東京日日(東日、現毎日)は「縊死(首)か毒殺か」という及び腰の見出しをとっている。東朝の記事は続く。

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 麹町署は死者が管内の住人だったため特に力を入れて捜査。その結果、大阪市西区新町南3丁目43番地、竹林祐橘の三男、男三郎(26)が浮上した。上京して中学から東京外国語学校を卒業。

 

 麹町区下六番町6番地の(漢)詩人、野口寧齋方に出入りしているうち、妹おそへ(え)と情を通じたため、寧齋はやむなく妹婿とした。昨年11月、2人の間に女児が生まれたが、男三郎は生来放蕩者で素行が修まらず、寧齋はついに前途の望みを諦めて離縁させた。

 

 男三郎は野口家を出て近くに住み、かねてから懇意だった富五郎の家にも出入りしていた。富五郎が金を引き出したことを聞いて電話で呼び出し、殺害して金を奪うに至った。

 

 男三郎は普段は小遣いにも困るほどなのに、その後は着物を新調。叔母に西洋料理をごちそうすると言って断られた。5月28日、男三郎は軍帽、軍服を着けて叔母の家を訪問。「自分は今回中尉相当の通訳官として清国へ渡航することになった」と言って別れを告げた。

 

 その帰り、飯田町駅へ来たところを新宿署の刑事が捕らえ、厳しく尋問したが、本人は頑として自白しなかった。しかし、軍帽、軍服を購入し、懐に劇薬を持っていた事実から殺人を犯した嫌疑があり、29日、身柄を検察局に送った。

「東京外国語学校卒業」など多少の誤りはあるが、事実関係の大筋はこの記事に出ている。男三郎は高飛びしようとしたとみられたようだ。報知には刑事に捕まった時、「懐中より散薬を取り出し、自殺を企てようとした」と書かれている。