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警察はどうして男三郎にたどり着いたのか?

 男三郎と結婚した野口寧齋の妹の名前は、予審決定書や判決は「そゑ」とし、新聞によって「おそへ」「そへ子」「そゑ(子)」「ソエ(子」)「曾(曽)惠(恵)(子)」などの表記がある。後年の本人のインタビュー記事に「曾惠子」とあるので以後はそれに従う。

 寧齋については約半月前の5月13日付時事新報に記事が載っていた。

野口寧齋の訃報(時事新報)

 野口寧齋氏の死去

 

 漢詩の大家、野口寧齋氏は昨日(5月12日)未明、脳溢血で死去した。享年39。氏は故松陽氏の遺児で、詩才、性格ともに優れ、俗世間から離れていた。長年病苦と闘いながら、一日も詩を詠むことをやめず、読む人間には精悍の気が迫ってくるようだった。普段よく母につかえ妹に優しく、2人から深い敬愛を受けていたという。

 記事では寧齋の絶筆という中国の景勝地を詠った七言長詩が紹介されている。寧齋は雅号で、本名は一太郎。森長英三郎「続史談裁判」(1969年)にはこうある。

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「肥前の人で字は貫卿、寧齋と号し、漢詩誌『百花欄』を刊行し、三十代で漢詩壇で五指に屈するといわれ、俳壇の正岡子規と並び称されたほどの人であった。当時はいまと違って漢詩が盛んであって、弁護士にも判事・検事にも漢詩を作る者が多かったぐらいだから、寧齋の名は高かった」

 教養人の高尚な趣味だったわけだ。警察が富五郎の人間関係から男三郎の存在を知って疑いを持ち、寧齋の死とも関連づけていただろうことが読み取れる。

富五郎殺しだけでなく、寧齋殺しも…?

 6月1日付東朝は、東京帝大(現東大)での遺体解剖の結果、ノドの骨が砕けているのが分かり「全く他殺と判明した」と報道。6月29日には寧齋の墓が発掘され、遺体の解剖が行われた。死亡から時間がたっていて死因は特定できず、毒物も検出できなかった。

 一方、脳出血も認められず、解剖に当たった東京帝大法医学教室の教授は「死因は脳溢血でなく、窒息死かどうかは不明。中毒とは認められない」とした=田中香涯「猟奇医話」(1935年)。

 7月4日付東朝は「寧齋氏毒殺事件に就て」の見出しの記事で、事件の核心は「男三郎がその妻だった曾惠子を教唆して寧齋氏を毒殺させたという点にある」と断言。「もしそれが事実なら、男三郎はどうしてそのように寧齋氏を恨むに至ったか」「曾惠子は男三郎が言うような恐ろしい罪悪を決行したか。その疑問は予審で判明される」と述べた。

 富五郎殺しだけでなく、寧齋殺しも男三郎の犯行であり、曾惠子も共犯の疑いがあると警察も新聞もみていたのだろう。

記事に添えられた曾惠子の写真(サンデー毎日より)

 それだけではない。同じ7月4日付の時事新報は記事の最後に次の9行を加えている。