太平洋戦争の敗戦から朝鮮戦争が起きるまでの約5年間は食糧を筆頭に物資不足が深刻で人心も荒廃。犯罪が頻発し、凶悪事件も多かった。

 1950年4月に北海道北部の小さな街の銀行支店で起きた強盗殺人事件は、幼児を含む6人という犠牲者の多さに加え、クロロホルムを注射したうえ、刃物で頸動脈や静脈を切断するという非情冷酷な手口が特徴。2年余り前に東京の銀行支店で12人が毒殺された事件との類似から「第2の帝銀事件」といわれた。

 しかし、当時の警察の体制の問題もあって迷宮入り。地方での出来事だったこともあって事件は忘れられた。なぜこんな事件が起き、なぜ解決されなかったのか。文章には現在は使われない差別語が登場。敬称は省略する。

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「血に彩られた拓銀支店 支店長ら襲い日本刀で…」

 朝鮮戦争が勃発する約3カ月前の1950(昭和25)年4月1日の土曜日、北海道拓殖銀行(拓銀)は営業開始50年を迎えた。

「北海道警察史第2(昭和編)」(1968年)によれば、北海道中川郡美深町の美深支店でも、昼までの営業終了後、記念式が開かれ、午後5時前からは支店とつながった支店長官舎で祝賀会が催された。

 事件はその夜、日付が変わってから起きた。2日発行3日付(戦後の当時もまだ夕刊は翌日の日付をとっていた)の地元紙・北海道新聞(道新)は見出しと本文で次のように報じた。

北海道新聞の事件第一報

 支店長以下六人慘(惨)殺 百五万圓(円)を奪つ(っ)て逃走 未明、美深拓銀支店に凶盗 麻藥(薬)を嗅(か)がせ刺殺

 2日午前1時ごろ、美深町東一(条)北二(丁目)、拓殖銀行支店長、富沢美光氏(49)宅のマキ小屋から窓を伝って賊が侵入。就寝中の同氏を起こして「金を出せ」と脅した。富沢支店長が、「銀行の金庫の合鍵は堀川支店長代理が持っているから」と、賊とともに堀川勘蔵氏(51)宅で鍵を受け取り、堀川氏及び妻ふみさん(46)と連れ立って棟続きの支店に行き、現金80万円余を渡した。だが、賊は同行した富沢氏に重傷を負わせ、堀川氏夫妻を殺害。さらに富沢氏宅に引き返して、一緒に寝ていた妻・睦子さん(44)及び六女・壽子さん(11)、七女・雅子さん(9)をも惨殺、逃走した。難を逃れた三女・美登里さん(18)の話によれば、犯人は白マスクをし、ゴム長(ゴムの長靴)に国防色(カーキ色)の服を着た30歳前後の男。殺害前に麻酔をかがせたもようで、いずれも頸動脈を刺し身包丁様のもので切断されている。