被害者6人は全員抵抗した様子はなく、鋭利な日本刀のような刃物で頸動脈や静脈を切断されて死亡した1950年の「拓銀支店6人殺し」事件。北海道北部の小さな街の銀行支店で起きた強盗殺人事件は、幼児を含む犠牲者の多さに加え、冷酷な手口が特徴の未解決事件だ。

 太平洋戦争の敗戦から間もない当時は、犯罪が頻発し、凶悪事件も多かった。しかし、それにしても異質なこの事件は、なぜ起こってしまったのか――。

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被害者6人は無抵抗のまま日本刀のような刃物で頸動脈や静脈を切断され…

 美登里と勇美子が岩倉宅へ知らせたのは4月2日午前4時15分ごろ。岩倉夫妻と現場に向かう途中、近くに住む美深町署刑事に知らせた。午前4時半ごろ、刑事は美深町署に連絡。非常招集を受けた署員が次々集まり、犯人の追跡と現場検証、付近の聞き込みなどの捜査活動が始まった。

 被害者6人は全員抵抗した様子はなく、鋭利な日本刀のような刃物で頸動脈や静脈を切断されて死亡していた。屋内を物色した形跡はなく、茶の間の茶だんすから富沢支店長の金2100円(現在の約1万8000円)、支店事務室の金庫から105万7267円(約882万円)が盗まれていることが判明した。 

 事件の2年余り前の1948年1月27日、東京都豊島区の帝国銀行(三井住友銀行の前身の1つ)椎名町支店で、男が行員らに伝染病の予防薬と称して青酸化合物をのませ、12人を殺害。現金16万4000円(現在の約169万円)と額面1万7000円(同約17万円)の小切手を強奪する事件が起きていた。戦後の謎の事件の1つ「帝銀事件」だ。「その記憶もまだ去らぬころ、この事件が発生したため、(1)銀行を狙った点(2)薬品を使用した点――などから、『第二の帝銀事件』とまで騒がれ……」と「北海道警察史第2(昭和編)」は記している。

事件は「第2の帝銀事件」とも呼ばれた(北海日日)

 美深に近い旭川に本社があった地元紙・北海日日新聞(1958年、北タイと合併)は4月3日付朝刊の記事に「第二の帝銀事件突發(発)」の見出しを付けた。3日発行4日付北タイ夕刊1面コラム「天地人」にも「まさに第二の帝銀事件、106万の金に未練はないが、六つの人命が惜しまれる」という短評が載った。

「早くも解決の兆し」と記事は続き…

「北海道警察史第2(昭和編)」は事件の状況については詳しいが、捜査については全く触れていない。迷宮入りして時効になったためだろう。後は新聞の記述などに頼るしかない。遺留品の多さもあってか、どうも当初はそれほど難事件だとはみられていなかった節がある。

 道新は同じ紙面で、現場の模様や生き残った家族の証言などから、捜査本部は「犯行は単独でなく」「男3~4名いたのではないかとみている」と記述。事件発生の時間帯に「現場付近を香具師(やし)ふうの男数名がうろつき、合図のような口笛を吹いていた」と書いた。香具師とは映画「男はつらいよ」の車寅次郎のような、祭りなどの時に露店で物を売る大道商人のこと。

 同じ日付の北海日日は「当日、様子探った男 容疑者に稚内のカマボコ商」の見出しで、事件前日と当日、現場周辺で様子をうかがっていた男を実名で報道。同時にこちらも「香具師ふう3人連れ」に言及した。

当初は「早くも解決の兆し」と報じられたことも(北海道新聞)

 続く3日発行4日付夕刊では道新が「早くも解決の兆し 共謀の犯行と斷(断)定 三容疑者に指名手配」、北タイが「美深殺人事件 急転解決へ 容疑者4名に逮捕状 町内に潜伏 何(いず)れも香具師」と報じた。