中でも1931年1月には、国内最低気温となる氷点下41・5度を記録。積雪は多い所で2メートルに達する。そのため、大規模稲作の北限地とされる。逆に1920年7月には最高気温が36・0度に達した。
一方、野口祐・編著「続日本の都市銀行」(1968年)や「美深町史(昭和46年版)」によると、北海道拓殖銀行は北海道の開拓事業に要する資金を供給するため、特殊な金融機関として1900年に設立された。
美深町では1926年「美深派出所」として営業を開始。「出張所」を経て戦時中の1943年、支店となった。「土地担保で農家に融資を行い、本町の経済を支えた時代もあった」と「美深町史(昭和46年版)」は書いている。
捜査の混乱の中で4月6日付北タイには「度膽(肝)を抜かれた町民 ほくほくの筆頭は宿屋さん」という記事が。
「あまり芳しくない6人強殺という事件で一躍全国的に有名となった、デンプンと木材の町、美深町は人口1万3000そこそこのちっぽけな町」
そこに警官隊が乗り込み、新聞記者が駆け回る。
「初めて見る光景に町民たちは、ただあれよあれよと目を見張るばかりで、一夜のうちに町の様相は一変した」
「大ウケ組の筆頭は何といっても宿屋さん。大小取り交ぜて5軒あるが、事件で来訪した撮影隊の人々や各社の記者でどこも超満員」
「検察、警察当局へ」という投書が…
その後も、現場近くの雪の中から、血痕をふき取ったとみられる紙と、上着の切れ端らしいホームスパン(素朴な風合いの平織毛織物)の布が見つかったうえ、単独犯との見方が強くなるなど、捜査に動きはあった。
単独犯との見方が特に注目されたのは、被害者が注射された薬物の鑑定。北海道大法医学教室の上野正吉教授(のち東大教授)が担当していたが、4月8日発行9日付北タイは「毒物の正体をつかむ 上野教授 鑑定の結果発表」の見出しで、富沢支店長の妻の内臓から「ついに日本犯罪史上初めてと思われる薬物の抽出に成功」と報じた。
当時、地元紙同士で激しい取材競争が展開されていたらしく、実際は発表ではなく、特ダネのつもりだったようだ。肝心の薬物の名前が書かれていない。
それは9日付各紙朝刊で明らかになる。道新は「藥(薬)物はクロロホルム」の見出しを立てた。
法医学の権威だった古畑種基・東大教授の「犯罪学講座 毒及び毒殺物語第三回」(「犯罪学雑誌」1953年1月号所収)によれば、クロロホルムは1831年にドイツで発見され、麻酔剤として広く使われて外科医の手術に大変革を与えた。水のように透明な重い液体で甘酸っぱいようなエーテル臭があり、容易に気化する。時として麻酔死を起こすこともあるほか、性的犯罪や強盗に使われることもあるという。
捜査は「医薬に関連ある人物を追う」(4月9日発行10日付北タイ夕刊)方向を中心に進められ、「近く新容疑者浮ぶか」(10日付北海日日朝刊)、「捜査は地道に進む」(11日付北海日日朝刊)などと思われたが、はかばかしい成果は得られなかった。
その間、4月9日付北海日日の投書欄「新風」には「検察、警察当局へ」と題した一文が載った。旭川周辺で起きた凶悪事件を列挙。「十指に余るもののうち、真犯人が検挙されたものが一つとしてあろうか」と批判。「高い税金を出したくなくなるではないか」と述べた。