4月12日発行13日付北タイ夕刊は、新得町の僧侶が捜査本部に抗議に怒鳴り込んだことを伝えた。13日発行14日付道新夕刊には、美深町長が民間情報部を役場内に設置。有力情報に総額10万円(現在の約83万円)を出すことを決めたというニュースが見られる。
捜査も「持久戦の見通し」へ。そして…
遺留品などの鑑定が進む傍ら、流れは徐々に固まっていった。「捜査網縮小に奔走」(14日付北海日日)、「長期化は必至か」(17日付北海日日)、「基本捜査は一段落 持久戦の見通し」(18日発行19日付北タイ夕刊)……。「迷宮入り」とは書いていないが、実態はその可能性が強くなっていた。
事件発生から約1カ月後の4月30日付北海日日には「ここ數(数)日中に逮捕」という次のような記事がある。
「現在までリストに挙げられた容疑者72名について、事件発生当時並びにその後の足どり、身上調査などに全力を注ぎ、漸次捜査範囲を縮小。ふるいに残ったごく少数の容疑者を対象として、傍証固めに最後の追い込みをかけている。ここ数日中に容疑者を逮捕。取り調べにかかるものとみられている」
内容からみると、これは碁や将棋でいう「形をつくる」意味のようだ。その後の続報はなかった。同年12月13日付読売朝刊には「拓銀ギャング取調べ」の見出しで、12日に別件で指名手配中の北海道出身の44歳の男が逮捕され、6人殺しでも調べを受けると書いた。しかし、こちらも立件されることはなかった。
「美深拓銀事件 きょうで時効」
これより先、4月16日付北海日日朝刊には「美深を去る美和子さんの手記」の記事が。4日の段階で拓銀人事部長は、被害者2家族の子どもたちを「成人するまで経済的にも援助していく」と表明しており、富沢家の5姉妹は旭川の拓銀社宅に引き揚げることになった。
長女は、父母と2人の妹を失った悔しさ、悲しさに、流れる涙をどうすることもできないとし、これから自分はほかの4人の妹の母親となって生きていく、と決意を述べている。17日付同紙朝刊は「四つの“位牌”胸に」5人が旭川に出発したことを写真入りで伝えた。
それから15年後の1965年4月2日付北タイは社会面左肩2段で「美深拓銀事件 きょうで時効」と次のように報じた。
【旭川】凶悪な殺人事件として世間を騒がせた『美深拓銀事件』は、15年間にわたる苦難な捜査のかいもなく、きょう2日で時効が成立する。
事件は第2の帝銀事件といわれ、当時の美深署はもちろん、道警はじまって以来の捜査陣容で犯人割り出しに全力を傾けてきた。容疑線上に上がった人物も3000人に達したが、ついに真犯人がわからないまま同事件は一応ピリオドを打つ。
「捜査手順にいくつの失敗ありや」
「北海道警察史第2(昭和編)」はこの事件の捜査について次のように書いている。
「自治体警察の組織の弱体、事件手配の不徹底、あるいは捜査共助体制の不備など、旧警察法当時の欠陥のほかにも多くの批判さるべき点があるのであるが、ここでそれらを述べることは適当ではない……」
捜査にミスや不手際があったことを認めている。4月12日発行13日付北タイ「天地人」も「拓銀事件捜査課長いわく『犯行計画に4つの失敗あり』『捜査手順にいくつの失敗ありや』」と書いた。