1ページ目から読む
6/6ページ目

「事件を解きほぐす端緒となるべき現場の指紋検出も不成功に終わり、謎の投書に対する不信も抱かずに、(男が釈放されて捜査)再出発の6日、ようやく指紋検出に乗り出すという不手際で、帝銀事件以上の大事件の要素を持っているこの拓銀事件は、あまりにも滑り出しがよかったために、十分な科学的基礎捜査と、それを処する捜査人員の動員を怠った捜査陣の黒星と言わざるを得ない」

「美深町史」の“少なすぎる記述”が意味するもの

 7日付北海日日も「遅れた本格的捜査」の見出しで「現段階までを結果的に見た捜査の不手際」を箇条書きで挙げた。要旨は――。

1、現場保存に懸命で、その他の捜査の人員が少なく、最初の手配が小範囲にとどまらざるを得なかった

2、結果的に、犯行時間とみられる(2日)午前2時以降、3時の貨物、4時の客車の出発を見逃してしまった

3、応援の捜査員の人数が多く、実際の活躍が少なかった

4、捜査本部の合同会議で基本線を決定して本格捜査を始めるまでに相当な時間を空費した

5、捜査の秘密保持にあまりに気を奪われ、十分町民の協力が得られなかった

 確かに「2本立て」の弊害が影響したことは間違いないようだが、それ以上に、そもそも、これだけの大事件に対応するには、捜査経験を含めた警察力全体が足りなかったということだろう。

ADVERTISEMENT

 2本の列車を見逃したというが、本当にそれだけだったのか。道路の緊急配備はどうだったのか。警察自身が検証していないので、実態がどうだったのかは分からない。どうも、未解決ということで地元ではなるべく取り上げないようにしたのではないか。「美深町史(昭和46年版)」も「金融機関」の項で「『拓銀事件』は本町犯罪史上にも特筆すべき悲惨事であった」としか記述していない。

「平気で人を殺した経験を持つ人間が、戦後も平気で歩いているのだ」

 犯行の態様を見て痛感するのは戦争の影だ。帝銀事件の犯人も、伝染病の予防薬と称して持ってきた液体をまず自分で飲んで見せている。

 戦争中、細菌戦で知られる「七三一」部隊など、軍の特殊部隊がやった手口ということで、捜査は当初旧日本軍関係に力が入れられた。拓銀支店の事件も、クロロホルムを注射して金を奪うだけで済むのに、わざわざ殺している。そこには明らかに「戦場のきなくささ」がある。捜査陣が犯人は「人を殺したことのある人間」とみたことは不思議ではない。

 4月4日発行5日付朝日夕刊社会面コラム「青眼白眼」は「拓銀支店の強盗殺人事件は帝銀事件以上の残忍さである」として次のように書いている。

「こういう凶悪な犯人は大抵変質者であるが、今度の事件は何となく正気の人間の残虐のような気がする」

「戦争の影響である。平気で人を殺した経験を持つ人間が、戦後も平気で歩いているのだ」

 それから72年。北海道拓殖銀行は不良債権を抱えて資金調達が難航し、1998年に経営破綻・事業譲渡して姿を消した。同じ年、北海タイムスも経営難のすえ倒産、廃刊した。長い時が流れ、この事件も降り積もった雪の底に忘れられた。

 その後も重大犯罪で未解決となった事件も多い。思い込みで捜査が引きずられ、結果的に失敗したケースもある。この拓銀支店6人殺し事件での最大の失敗は、未解決に至った捜査の内容を検証し、以後の犯罪に生かさなかったことだろう。

【参考文献】
▽「北海道警察史第2(昭和編)」 1968年
▽「美深町史(昭和46年版)」 1971年
▽野口祐・編著「続日本の都市銀行」 青木書店 1968年