「2本立て」だった当時の日本警察
戦後の占領行政を担当した連合国軍総司令部は、日本の民主化と非軍事化を狙って警察組織の変更を日本政府に要求。その結果、1948年3月に警察法が施行され、市や人口5000人以上の市街的町村には自治体警察が置かれ、それ以外の村落地域には国家地方警察(国警)が設置されることになった。その結果、美深にも美深町署が置かれた。
「北海道警察史第2(昭和編)」は「明治以来の警察制度は根本的に改められた」として、こう評している。
こうした制度は警察の民主化に寄与することになったが、反面、人口5000以上の町村までもが警察を維持したため、中小自治体の財政圧迫、警察ボスの横行、国警との連絡不十分など、さまざまな弊害が生ずるに至った。例えば音江の一家8人殺し(1948年4月)、美深の拓銀事件、「まりも号」転覆事件(1951年5月)など、新制度発足後における本道の重大事件を見るとき、そのいずれもが未解決事件になっている。もちろん、この原因としては科学的施設の不備、新刑事訴訟法の研究不足などが挙げられるが、警察組織の細分化による弱体化も決して見逃せない要素である。
この警察組織の「2本立て」は当の日本の警察関係者には極めて評判が悪かった。占領終結後の1954年、警察組織は都道府県警察に一本化される。同書が「旧警察法」と言っているのは「2本立て」時代のことだ。
「犯罪捜査の方法が拙劣だとか手ぬるいとかの原因もあろうが、より根本的な原因としては…」
この事件の捜査が難航し、未解決のまま時効に至った理由の1つとして、占領下に強いられた警察体制に言及されることが多い。
北海道で出ていた雑誌「北海評論」も事件発生5カ月後の1950年9月号で、迷宮入りの様相を呈していることについて「犯罪捜査の方法が拙劣だとか手ぬるいとかの原因もあろうが、より根本的な原因としては、警察機構そのものの無統制があげられるのではなかろうか」とし、次のように指摘している。
「旧警察制度は確かに封建的で多分に軍国主義的色彩に富んでいたが、一面において、警察の機動力を迅速に、かつ能率的に発揮し、国民をして治安維持に不安なからしむるの長所を持っていたのである」
書き手が「旧世代」の人であることが分かるが、では、具体的には捜査のどこに問題があったのか。
「この拓銀事件は、あまりにも滑り出しがよかったために…」
最も早く指摘したのは4月6日発行7日付北タイ夕刊の「捜査陣の黒星」の見出しの記事。それによれば、捜査開始当初、逮捕した元衛生軍曹の男や、新聞報道されたかまぼこ商、香具師3人組が容疑者として登場したが、担当した刑事の大半が美深署員だったため、「犯人の条件」がそろった元衛生軍曹にのみ力が注がれた。
そこに投書が舞い込んだので逮捕したが、主観的な思い込みを優先して物的証拠など客観的な確証を握れないまま、時間を空費。腕利きの刑事たちが他署から応援に駆け付けたが手遅れだった。捜査陣の見方の溝が深くなり、首脳陣の意見もまちまちで統制がとれなかった。記事は次のように指摘している。