〈台所から裏口の戸の開く音がして外へ出て行った。すぐ逃げ出そうと思ったが、見張りがいると考え、その時目を覚ました妹(四女)と「恐ろしい。どうする?」と相談。「父さんがああしているんだから黙っていよう」ということになった。姉(次女)はまだ眠っていた。〉
「注射だけはしないでくれ」
〈5分ぐらいで帰ってきて8畳間に来た時、堀川さんの奥さんの声がしたので、一緒に連れてこられたことが分かった。男がまた注射の話をした。〉
堀川の妻 注射だけはしないでくれ。騒がなければいいでしょう。家に赤ん坊もいるし、泣き出したらどうする
男 寝なさい
堀川の妻 私は心臓が弱いから、そんな注射したら嫌だ……
〈結局、奥さんも注射されたらしく、また音がしなくなった。男と父と堀川さんの3人が廊下に出て支店事務室の方へ行き、10分くらいして茶の間に戻った。男だけが八畳間に来て電灯を消し、また茶の間に行って注射の話をしているようだ。〉
父 暴れないからやめてくれ
男 それでは寝てくれ。この金は届けなければならない。届けたら青年のために……。それまでは騒がれては困る
〈話し声はなくなり、静かになった。それからキシキシパチンという音がした。注射液のアンプルを切り、注射器に薬を入れているようだ。ふすまの間から見ると、男は四角の白いマスクをかけ、国防色の服の上に夏物コートの前ボタンを外して着ている。腰を折って医者のような格好で注射器を持っている。足音でゴム靴を履いていると思った。〉
「みんな殺されてる!」
父 なんか変だな
男 騒がないと言ったではないか
父 酔っぱらっているみたいだな……
父 痛いな
〈父に注射をしているらしい。それからゼイゼイとノドが鳴るような音がした。妹2人の「キャッ」という声がした。まだゼイゼイという音が続いている。しばらくして静かになったころ、男は支店事務室の方へ行き、入り口の戸が「バタン」という音がした。男が出て行ったようだ。