「大祖国戦争」という言葉の由来
われわれ、ロシア以外の国民にとっては、このような歴史認識は史実の裏付けを欠いた、政治のための道具(インストルメント)であるとしか思われない。しかし、ロシア人に対しては、彼らの国民的記憶ゆえに、大きな訴求力を持っている。その理由を、プーチン、そしてロシア政府の歴史政策のキーワードである「大祖国戦争」に注目しつつ、考察してみよう。
この概念が生まれた端緒は、1812年の対仏戦争であった。全盛期にあったナポレオンのフランス帝国は、その総力を結集し、およそ50万ないし70万(諸説あり)の大軍を以て、ロシアに侵攻した。存亡の危機に直面したロシアは、これは侵略者に対する祖国防衛戦争だとの意味をこめて、「祖国戦争」と呼称したのである。
また、「祖国戦争」の名は、1914年に勃発した第一次世界大戦に際しても、ロシアのドイツならびにオーストリア゠ハンガリー帝国に対する戦争を指す用語として用いられた。
さらに、1941年にナチス・ドイツの侵略を受けると、本概念はいよいよ拡大されて使われることになる。同年の6月23日、独ソ開戦の翌日に、ソ連共産党の機関紙『真実(プラウダ)』に、「ソ連人民の大祖国戦争」というタイトルの論説が掲載され、この戦争は、1812年のそれよりもはるかに深刻な危機であり、国民はナポレオンに抗したとき以上に奮起・力戦しなければならぬと説いた。「祖国戦争」をうわまわる難戦、「大祖国戦争」を遂行せよというのだ。以後、「大祖国戦争」は、ソ連、ひいては現在のロシア国民における、第二次世界大戦の公式呼称となっていく。
こうして、「大祖国戦争」の名称と概念が生まれた経緯を確認してみると、現在のプーチン政権がウクライナ侵略戦争を、ナポレオンのロシア遠征とヒトラーのソ連侵攻を撃退した戦争に続く「第三次大祖国戦争」と称するのは数えちがいだろうと揶揄(やゆ)したくもなる。「第三次祖国戦争」なら、ナポレオンの侵攻から数えて3度目の危急存亡の秋(とき)を示しているといえるので、敢えてロシアの主張に従うとしても、今回の侵略戦争は、独ソ戦(いわば、「第一次大祖国戦争」になるか)につぐ「第二次大祖国戦争」のはずだ。
もっとも、これは字面の問題であり、プロパガンダ上の効果を期待してのことと推測されるから、ひとまず措(お)く。より重要なのは、「大祖国戦争」なる概念が、ロシア国民に対して大きな訴求力を持っているという事実とその歴史的背景であろう。
現在、プーチン政権は、この戦争は、ウクライナのみならず、その背後にいるNATO諸国の「侵略」を受けての防衛戦、危機にあるロシアを守るための「第三次大祖国戦争」なのだとの言説を発しはじめている。はなはだしい場合には、ウクライナに派遣されたNATO軍部隊とロシア軍が交戦したとのフェイクニュースさえ流される始末だ。
一方的にウクライナに侵攻し、虐殺や強制連行、収奪を繰り返している国家のいうことかと、その厚顔無恥(こうがんむち)に呆れるばかりだが、しばしば報じられているように、多くのロシア国民は、「第三次大祖国戦争」論を肯定し、支持しているのである。
しかも、国民のみならず、プーチン以下の指導者たちも、戦争遂行のためのフィクション、政治のための方便とわかっていて、敢えてそれを利用するに留まらず、自らも、そうした歴史認識を信じ込んでいるとさえ思われるのだ。
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大木毅氏による「ロシア『大祖国戦争』が歪める歴史認識」全文は、「文藝春秋」2023年6月号と、「文藝春秋 電子版」に掲載されています。