志麻子の両親は『新宿の女』『圭子の夢は夜ひらく』で70年代初頭、歌謡界の新女王と呼ばれた藤圭子の大ファンだったこともあり、東京といえば新宿だった。自由が丘や青山、成城といっても親はそこが東京だとはわからなかった。
志麻子も新宿七丁目という住所が気に入り、さっそく内見に向かった。
マンションは気に入ったが、住所が正確には新宿七丁目ではなく道一本挟んだ歌舞伎町二丁目だった。業者が歌舞伎町のイメージを嫌ったのだろう。
だが志麻子にとってはプラスに働いた。
「歌舞伎町っていったら、あの街か。そのとき、わたし、導かれるように歌舞伎町にきちゃったなあというか、因縁があったのかなあと思ったんですよ。その前後から歌舞伎町について関心を持っていたら、『パリジェンヌ』が出てくるわけですよね。いまみたいな改装されたお洒落なカフェじゃなくて、ほんとに怪しい感じの、赤いソファで、ピンク電話が何台かあって。そこで発砲事件とかいろんな事件が起こって、わたしが行ってみたかったのがパリジェンヌだったんですよ。これぞ歌舞伎町」
内見を終えて、即決でマンション購入の契約をした。
購入資金は自己資金と大手出版社からの前借りだった。いかに岩井志麻子が版元から重用されているかがわかる。
「生まれてはじめての大きな買い物ですが、そのときは、なんのためらいもなく、ここ買う!ってなったんですよね。歌舞伎町がきたーっ。わたしが歌舞伎町にきたんじゃなくて、歌舞伎町がわたしに歩み寄ってきた」
歌舞伎町は優しい街
歌舞伎町で暮らしていると、日常の光景としてヤクザ、ホスト、キャバ嬢と出くわす。
志麻子の飼っている犬が散歩中に逃げ出したときがあった。
途方に暮れていると、路上に居合わせたホストやキャバ嬢が手分けして探してくれた。
「見つけたら、はい解散! みたいな。敵とかライバルとかにならない相手には歌舞伎町は優しいよなぁってしみじみと思います」
ハイジアは志麻子の散歩コースである。
正式名称東京都健康プラザハイジア。
歌舞伎町では「ハイジア」で通じる、地上18階建ての高層ビルである。
都立大久保病院の跡地を都の土地信託事業として活用した大規模施設であり、大久保病院のほかスポーツクラブ、フィットネスクラブ、事務所などが入居している。
都立大久保病院は、1879年(明治21年)8月、この地に誕生した、歌舞伎町の推移を目撃してきたもっとも古い施設である。
現在は近代的な建物に建て替えられ、歌舞伎町の印象をがらりと変えてしまった。
もっとも変わらない風景もある。
歌舞伎町名物、立ちんぼがいまもハイジア周辺で健在である。