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LiLiCo 事務所に「私、辞めるわ」と言いました。自分でもびっくりだったんですけど、唯一そのときだけ、20年以上もやってきた芸能界になんの未練もなかったんですよ。自分が育った国を捨てて、芸能界にしがみついてきたのに。

 今思えばあのとき、母のことで、もう脳がブロークンしちゃっていたんだなと思います。

 それで事務所の社長と飲むことになって、そうしたら、その飲み会が転機になったというか、突然元気になっちゃって。

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©三宅史郎/文藝春秋

「私はこの国に元気をあげたい」日本に残ることを決意

――飲み会で何が起こったんですか?

LiLiCo 社長に「もうだいぶ日本語がわかるようになったから、バラエティに出てみたら?」と言われて。以前からバラエティ番組のオファー自体はあったんですけど、とにかく自信がなくて断っていたんですね。

 ちょうどその頃に、震災が起きました。これは内容は言えないんですけれど、震災のあと、みんな必死でがんばっている中で母から本当にひどい連絡がくるようになって。「なんてことを言うんだ」と思って、それが決め手になって私は母親のことを手放して、スウェーデンに帰るのを止めたんです。

――事務所の社長の言葉や震災がきっかけで、日本に残る決意をされたんですね。

LiLiCo はい。震災のあと、やっぱり日本ではみんなの心が死んでしまっていて。あのときに自分の中ですごく何かが変わって「私はこの国に元気をあげたい」と思ったんですよ。何も当てはないんですよ、全く。でも私はこの国に残って、みんなを元気にしようと思って。

©三宅史郎/文藝春秋

 震災から3ヶ月後くらいに、NHKの『スタジオパークからこんにちは』という番組に出演させてもらえることになったんです。当時は自粛ムードだったからテレビはほとんどがニュース番組で、バラエティ番組があっても、私も含めて全体が「心から笑えない」という感じで、みんな黒とかグレーの服を着ていたりして。

――CMや広告に対してですら、あの頃は「不謹慎ではないか」というムードがありました。