次々とタイトルを奪取し、将棋界を席巻する天才・藤井聡太。その師匠である杉本昌隆八段が、瞬く間に頂点に立った弟子との交流と、将棋界のちょっとユーモラスな出来事を綴ったエッセイ集『師匠はつらいよ 藤井聡太のいる日常』(文藝春秋)。
その中の一篇「私が振り飛車党になったわけ」(2022年5月5・12日号)を転載する。
(段位・肩書などは、誌面掲載時のものです)
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振り飛車党で左利きの棋士は多い気がする
いよいよゴールデンウィークが始まる。今年は最大で10連休とのことだが、読者の皆さんはどう過ごされるのだろうか?
憎きコロナのオミクロン株はまだ収まっていないが、昨年や一昨年の重苦しい毎日よりはだいぶマシな気がする。
なお私は連休ど真ん中の5月初めに対局予定。新幹線移動でせめてもの旅行気分を味わうことにしよう。
「華麗なる振り飛車のサウスポー棋士」
こんなフレーズをたまに聞く。実際、振り飛車党で左利きの棋士は多い気がする。ひらめきや空間認識能力には右脳が中心に働き、左手はその右脳に繫がっているとか。
なお私は右利き。ひらめきとは程遠く、一手ずつ慎重に時間を使って作戦勝ちを目指す棋風。ついでに書くと血液型はA型である。
仲間内でよく言われていた“三重苦”
実は私が振り飛車党になったのは15歳頃。今でも思い出す。居飛車で負けが込んでいた10代前半、棋風を変えるまでの葛藤を。
「振り飛車では名人(トップ)になれない」
「対振り飛車には居飛車穴熊に組めば有利」
「板谷一門は(師匠や大師匠に倣って)振り飛車を指してはいけない」
最初の二つは当時、仲間内でよく言われていた。棋界の風潮、手強い対策、そして一門の禁。まさに三重苦で、当時の奨励会員で振り飛車からもっとも縁遠いのが私。しかし、だからこそ燃えた。