それは古びた楽譜だった。年代物なのか、表紙は色あせて茶色い。パラパラとページをめくると手書きの音符や曲目が確認できたが、一部の文字は消えかけている。目を凝らしてよく見ると、表紙にはうっすらと「モダンジャズ メモランダム」と鉛筆のようなもので書かれた跡が残っている。楽譜は、どうやらジャズの曲のようである。
「楽譜読めると?」
社長が尋ねると、男は静かにうなずくだけだった。男はかつて楽器を演奏していたことがあるのだろうか。社長はどこかそわそわしている男に気を遣っているようで、さらに語りかける。
「今日からここで生活してもらいますけど、何か心配なことはありますか?」
ここで、ようやく男が口を開いた。
「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」
「寝るとき、何時頃に寝るのか?」
思いがけない言葉に緊張の糸がほぐれ、社長や支援団体の職員が微笑んだ。
「寝たかときに、寝てよかですよ」
しかし、男の方は真剣である。
「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」
高齢による持病のため、1人で起きるのが困難なのでは、などと考えをめぐらせていると、支援団体の職員がすかさずフォローした。
「今までずっと刑務所の中で、命令系統でやってきたので、やはり指示がないと動けないんですよ」
その指摘通り、男には刑務所での振る舞いが染みついていることを、私たちは目の当たりにすることになる。
そんな男のことを、私たち取材班は「A(さん)」と呼んだ。
1つには、個人情報漏洩やプライバシーを懸念しての対応であった。普段から本名を呼んでいると、ふとした瞬間に外部に情報が漏れてしまうことを危惧したからだ。また、撮影中に実名で呼んでしまうと、撮影した音声が後で使いにくくなってしまうという事情もあった。
その「A」という名称は、後に“日本一長く服役した男”を表す象徴的な意味が込められるようになる。
腕まくりのやり方もわからない
Aの行動1つひとつには、刑務所での振る舞いや習慣、そして、61年という刑務所内の時の経過、さらには時代のギャップへの戸惑いが表れていた。
仮釈放された当日の午後。あまりに少ないAの所持品を見かねて、生活に必要な品を揃えに、社長がAを買い物に連れ出したときのことだった。
まず向かったのは近場の衣料品店。Aは興味深そうに店舗にある商品を眺めていた。社長に促されて、服を選ぼうとするがなかなか決められない。興味はあちこちに向き、しまいには近くにいた私の、腕まくりしたワイシャツの袖をさわりながら、「これはどうやってやるのか」と聞いてくる。試しに一から袖をまくって見せると「おお、これがわからんのです」と目を輝かせた。
というのも、刑務所では夏服は半袖、冬服は長袖を着用することが決まっていて、自由に長袖をまくれるわけではない。結局、Aは衣料品店で社長に勧められて、パジャマやズボン、下着や靴下、それに長袖のワイシャツも購入したのだった。