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「リアル浦島太郎じゃん」無期懲役で61年間も刑務所にいた“日本一長く服役した男”が、出所後に見せた“衝撃的な言動”

『日本一長く服役した男』より #1

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 それは古びた楽譜だった。年代物なのか、表紙は色あせて茶色い。パラパラとページをめくると手書きの音符や曲目が確認できたが、一部の文字は消えかけている。目を凝らしてよく見ると、表紙にはうっすらと「モダンジャズ メモランダム」と鉛筆のようなもので書かれた跡が残っている。楽譜は、どうやらジャズの曲のようである。

「楽譜読めると?」

 社長が尋ねると、男は静かにうなずくだけだった。男はかつて楽器を演奏していたことがあるのだろうか。社長はどこかそわそわしている男に気を遣っているようで、さらに語りかける。

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「今日からここで生活してもらいますけど、何か心配なことはありますか?」

 ここで、ようやく男が口を開いた。

「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」

「寝るとき、何時頃に寝るのか?」

 思いがけない言葉に緊張の糸がほぐれ、社長や支援団体の職員が微笑んだ。

「寝たかときに、寝てよかですよ」

 しかし、男の方は真剣である。

「起きるときも、起こしてもらわなきゃいかん」

 高齢による持病のため、1人で起きるのが困難なのでは、などと考えをめぐらせていると、支援団体の職員がすかさずフォローした。

「今までずっと刑務所の中で、命令系統でやってきたので、やはり指示がないと動けないんですよ」

 その指摘通り、男には刑務所での振る舞いが染みついていることを、私たちは目の当たりにすることになる。

写真はイメージです ©iStock.com

 そんな男のことを、私たち取材班は「A(さん)」と呼んだ。

 1つには、個人情報漏洩やプライバシーを懸念しての対応であった。普段から本名を呼んでいると、ふとした瞬間に外部に情報が漏れてしまうことを危惧したからだ。また、撮影中に実名で呼んでしまうと、撮影した音声が後で使いにくくなってしまうという事情もあった。

 その「A」という名称は、後に“日本一長く服役した男”を表す象徴的な意味が込められるようになる。

腕まくりのやり方もわからない

 Aの行動1つひとつには、刑務所での振る舞いや習慣、そして、61年という刑務所内の時の経過、さらには時代のギャップへの戸惑いが表れていた。

 仮釈放された当日の午後。あまりに少ないAの所持品を見かねて、生活に必要な品を揃えに、社長がAを買い物に連れ出したときのことだった。

 まず向かったのは近場の衣料品店。Aは興味深そうに店舗にある商品を眺めていた。社長に促されて、服を選ぼうとするがなかなか決められない。興味はあちこちに向き、しまいには近くにいた私の、腕まくりしたワイシャツの袖をさわりながら、「これはどうやってやるのか」と聞いてくる。試しに一から袖をまくって見せると「おお、これがわからんのです」と目を輝かせた。

 というのも、刑務所では夏服は半袖、冬服は長袖を着用することが決まっていて、自由に長袖をまくれるわけではない。結局、Aは衣料品店で社長に勧められて、パジャマやズボン、下着や靴下、それに長袖のワイシャツも購入したのだった。