そこで、社長は「この場所でゆっくりのんびり生活していこう」と優しく諭したのだった。その言葉にAはうなずきながら、「のんびり……」と独り言のようにつぶやいた。
懲役は、別名「自由刑」とも呼ばれる。受刑者を刑務所に閉じ込め、身体の移動の自由を奪うことが名称の由来だとされる。仮釈放された今のAには、保護観察などの制約はあるとはいえ、一定の“自由”が与えられているはずだった。
だが、あまりに長い時間、自由を奪われた状態であると、出所した後の変化になじめず、今度は自由が与えられること自体が“罰”のようになってしまうのかもしれない。Aにとっては、それぐらいの大きな環境の変化だ。
“自由が奪われる刑罰から、自由が与えられる刑罰へ”。そんな皮肉めいた現実が目の前にある気がした。
謎に包まれた男
仮釈放から1週間、私たち取材班は毎日交代で施設に通い、Aの様子をつぶさに観察していくことにした。だが、長きにわたって染みついた服役生活が1つひとつの行動に表れているようで、Aの主体性や明確な意思を感じとれる場面は少なかった。
【気になる行動の記録】
・他の入所者に話しかけられても、黙ってうなずくだけ。
・職員にサポートされて入浴するが、服を脱ぐタイミングや置く場所に迷う。
・テレビのリモコンの使い方がわからずに、手に持って首をかしげる。
・耳が遠く、歯も抜けていて、口頭での会話が難しい
・質問しても聞き取れないのか、多くは「わからん」と返事する。
・手書きのメモを示すと、質問の趣旨に沿った回答をすることがある。
・「仕事はないのか」とたびたび聞いてくる。
・几帳面な性格なのかシャツやタオルをきれいにたたむ。
・食事中に「麦飯でないと、白飯は慣れない」と言う。
「プリゾニゼーション(prisonization)」という言葉がある。『新訂 矯正用語事典』によると、次のように記されている。
刑務所化ともいう。拘禁状況への過剰適応の1つと考えられ,感情が平板になり,物事に対する関心の幅が狭くなり,規律や職員の働き掛けに従順に従う。施設・職員に世話をされる状況への順応が,しばしば退行(子供返り)として表れる。無期懲役受刑者において典型的に生じる拘禁反応であるとされ,終わりのない刑に対する諦めの反映と考えられる
「プリゾニゼーション」「刑務所化」、あるいは俗に「ムショぼけ」などとも呼ばれることもあるそうだが、出所したばかりのAは、まさにこうした言葉を体現したような振る舞いの連続だったと言える。
何を聞いても「あんまりわからんね」
私たちは毎日、Aの様子を記録しながら、あわせて過去を知るべく、直接話を聞こうと試みた。最初に話を聞いたのは、元浦ディレクターだった。
「昔のことは覚えていますか?」
「あんまり、わからんな」
「小学校は?」
「習っているかもしれん。わからんな。教科書をほとんど見たことがない」
「友達は?」
「あんまりわからんね」
「生まれは?」
「……」
「刑務所ではどんな生活でした?」
「向こうでは……」
会話には応じてくれるものの、Aは戸惑っているのか、あるいは話したくないのか、口数は少なく、話は進まなかった。