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「殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません」“相模原19人殺害の植松聖死刑囚”が陥った「優生思想」が決して他人事ではない理由

『客観性の落とし穴』 #2

2023/07/03

genre : ライフ, 社会

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優生思想と死

 優生思想は障害者が生まれてくることを拒むだけでなく、生きている障害者を殺してきた。1970年5月に起きた横浜での母親による障害児殺しにおいては、母親への減刑嘆願運動が市民のあいだで起きた。“障害児を育ててきて苦悩した母親がかわいそう”というのである。

 当時、脳性まひ当事者の人たちが展開した青い芝の会の運動を紹介したい。その理論的な支柱は横田弘(1933~2013)と横塚晃一(1935~1978)という2人の脳性まひ当事者だった。横田の言葉を引用しよう(『障害者殺しの思想』より)。

 また、一人、障害児が殺された。

 

 歩けないということだけで。

 

 手が動かないというだけで。

 

 たったそれだけの理由で、「福祉体制」のなかで、地域の人びとの氷矢のような視線のなかで、その子は殺されていった。(中略)

 

 何故、障害者児は殺されなければならないのだろう。

 

 なぜ、障害者児は人里離れた施設で生涯を送らなければならないのだろう。

 

 何故、障害者児は街で生きてはいけないのだろう。

 

 ナゼ、私が生きてはいけないのだろう。

 

 社会の人びとは障害者児の存在がそれ程邪魔なのだろうか。(原文ママ)

 助命嘆願の運動に抗議するために横田が執筆した文章をもう一つ引用してみる。

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 重症児は抹殺される

(中略)裁判の進行状況をみるとき、私達のねがいや、期待とはうらはらに、高度成長のみを至上とし、人びとの生命や意識まで管理しようとする国家権力の手で、現代社会が必要とする生産性能力を持たない重度障害者を「施設もなく、家庭に対する療育指導もない、生存権を社会から否定されている障害児を殺すのは、やむを得ざる成り行きである」とする一部の親達の意見を利用して抹殺しようとする方向にむかっているのです。

 高度経済成長期の日本では、よりよい学歴、より高い社会的地位と収入を望む価値観が浸透していった。同時に、核家族化と女性の専業主婦化が進み、介護ケアが母親の役割に閉じ込められてきた。そのなかで家族を無償でケアする役割を一人で負わされた専業主婦である母親が障害を持った我が子を殺す事件が起きたのだ。

 横田自身、大きな障害がある車いすユーザーであった。親が死去したときに叔父夫婦のもとに住むことになり、肩身の狭い思いをしたという。彼自身「生産性」を持たないとされるがゆえに、社会から抹殺されうる存在であると感じていたのだ。つまり横田の言葉は決して大げさな妄想ではない。

写真はイメージ ©getty

 当時何件か、将来を悲観した家族が障害者を殺す事件が起きている。そして家庭で育てられていない障害者たちの多くは、郊外に建設された大規模なコロニーへと隔離収容されていた。そのような背景から、脳性まひ当事者たちは、家に閉じ込められることも施設に隔離されることも拒んで自分たちで地域社会のなかで暮らす試みを始めていたのだった。障害者が権利を主張する運動と障害者を殺す事件が同時並行的に起きている。

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