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「殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません」“相模原19人殺害の植松聖死刑囚”が陥った「優生思想」が決して他人事ではない理由

『客観性の落とし穴』 #2

2023/07/03

genre : ライフ, 社会

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今も消えない「優生思想」

 横田が感じた恐怖は過去のものではない。2016年神奈川県にある津久井やまゆり園において重度障害を持つ入所者が、「生産性をもたない」という理由で元職員によって19人殺された。犯人である植松聖は、“名前を呼びかけても反応できない入所者を選んで殺害した”と言われている。彼は重度心身障害を持つ人のことを「心失者」と呼び、獄中で次のような言葉を発している。

 人間として70年養う為にはどれだけの金と人手、物資が奪われているか考え、泥水をススり飲み死んで逝く子どもを想えば、心失者のめんどうをみている場合ではありません。

 

 心失者を擁護する者は、心失者が産む“幸せ”と“不幸”を比べる天秤が壊れて、単純な算数ができていないだけです。(中略)目の前に助けるべき人がいれば助け、殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません。

 植松は障害を持つ人の生活を「幸せ」と「不幸」の問題へと読み替え、必要とされる社会的コストが見合うものではないのは「単純な算数」だと語る。この「幸せ」を測る「算数」とはなんのことだろうか。人が生活するために必要な福祉的なコストのことだろうか。いずれにしても効率と生産性を指すだろう。

 彼は、人間が数値化され、障害を持つ人は無用であり、社会から排除されるべきだと考えている。やまゆり園で他の所員たちによる深刻な虐待が横行するなかで、植松が優生主義的な差別意識をもつようになったと言われている。福祉職・介護職をめぐる劣悪な労働環境が背景にはあるだろうし、植松個人の問題ではなく我々自身のなかにある集合的な思考の問題でもある。

「殺すべき者がいれば殺すのも致し方がありません」“相模原19人殺害の植松聖死刑囚”が陥った「優生思想」が決して他人事ではない理由

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