ひとつだけ覚えているのは、選手とスタッフの笑顔でした。最高の仲間たちが、身体いっぱいに歓喜を爆発させている。まるでぶつかり合いのように抱き合っている。
選手とスタッフに支えられて、どうにか自分の仕事をまっとうすることができました。この瞬間の感情を表現するなら、「尽己」という言葉の境地だったかもしれません。
「人事を尽くして天命を待つ」というものとはまた少し違って、目の前で起こることはすべて自分の責任ととらえて、自分にできることをやり尽くす。1ミリたりとも出し惜しみはしない、という心境でした。天命を待つというよりも、みんなの喜びのために努力し続ける意味で、より能動的な姿勢かもしれません。
もちろんそこには、情熱や真心、人を思う気持ちといったものがあります。利己ではなく利他の心で取り組むからこそ、大きな目標が達成できるのは言うまでもありません。
無私道
侍ジャパンはなぜ勝てたのでしょうか? これまで何度も受けてきた質問です。
14年ぶりの世界一奪還を果たしたいまなら、勝因をあげることはできます。ただ、どの試合も簡単ではありませんでした。とくに準決勝と決勝は本当に紙一重で――薄紙一枚ほどの差が勝敗を隔てたと感じます。
結果が求められる大会だからこそ、やはり過程が大切です。過程にこだわるからドラマが生まれ、そのドラマが唯一無二の美しさを放つ。
人はなぜ生きるのかと問われて、「誰かに喜んでもらうため」と答えた方がいました。そのとおりだと思います。
野球が日本で盛んになった昭和初期、競技の本質はこう教えられていました。
無私道――。
己を捨てて、チームを、チームメイトを生かす道を究める。人として大切なことを学び、身につけ、教え、広めることができるからこそ、野球はかくも長きにわたって愛され、多くの人たちに感動を届けてきたと思うのです。
ベンチで選手たちを明るく盛り上げる大谷
侍ジャパンとして戦ってくれた選手たちは、己のプライドを脇に置いて、日本野球のためにすべてを懸けてくれました。彼らは甲子園出場を目ざす球児のようなひたむきさと謙虚さ、それに我慢強さを持っていました。
好きなものに全力で打ち込む姿は、掛け値なしに心を打ちます。感動させられます。彼らとともに過ごした一か月強は、人間としての素晴らしさに気づかされる日々でした。
メキシコとの準決勝で、7回裏に3対3に追いついた直後の8回表、2点を失って再び突き放されました。
気勢を削がれてしまったのですが、ベンチで選手たちを迎える翔平の姿は、いささかの不安も感じさせません。「さあ、ここからいこうじゃないか!」と、チームメイトを明るく盛り上げていたのです。