1989年にゲームボーイで発売された『魔界塔士サ・ガ』はさまざまな相違点こそあるものの、オチはかなり近いものがある。古代から続く因縁に仲間と協力して打ち勝つ物語であれば、1999年にPlayStationで発売された『サガ フロンティア2』が存在する(なお、どちらもスクウェアの作品である)。
『FF16』は物語の前半こそベアラー、マザークリスタル、召喚獣といった現実のメタファーと考えられるうえ規模の大きい設定が出てくるものの、後半は“いつものRPGの物語”に収束してしまう。物語の後半に不満を覚えるユーザーがいるのは、結局のところ前半の設定をうまく活かせていないからではないか。
「ファイナルファンタジー」が目指すエンターテインメントの方向性
『FF16』の物語がこういう方向性になった理由はいろいろと考えられる。
ビデオゲームはフォトリアルになるにつれて、より現実に引き寄せられる問題がある。昔は敵と味方が向かい合い、順番を守って互いに攻撃しあうバトルでも許されたが、最近はリアルタイムに進行するアクションゲームにしたほうが違和感は少ない。当然、世界設定や物語もよりリアルに寄らねばならなくなっていくだろう。
とはいえ、ビデオゲームを遊ぶ人すべてが暗くて重い物語を楽しみたいと思っているわけではないし、つらく苦しい現実を娯楽の世界で見たくないという意見もありえるだろう。開発陣も、あえて複雑な問題に踏み込まないようにした可能性がある。
では、なぜ『FF16』は現実世界の問題に見えてしまうものを取り入れたのだろうか? それはやはり、薄暗い世界を描くうえでプレイヤーに(エンターテインメントとしての)つらさを体験させるためだろう。
しかし、暗い部分に足を踏み入れたにも関わらず雑に済ませてしまうのは、プレイヤーがそういった物語を受け止めきれない、つまり開発陣がプレイヤーの感性を信頼していないのだと捉えられかねない。
『FF16』の世界、ヴァリスゼアには差別・偏見・格差など、たくさんの問題があるはずだ。悪を倒しただけでそれらが解決するというのはあまりにもシンプルな夢であり、それこそ幻想に見えかねないのではないか。