『墨のゆらめき』(三浦しをん 著)新潮社

 三浦しをんさんの新作長編『墨のゆらめき』が刊行された。本作はアマゾンのオーディオブック「オーディブル」からの依頼で執筆されたもの。朗読配信を前提とした作品を書いたことで、三浦さんは小説の可能性の広がりを感じたという。

「いろんな発見が自分のなかであって、楽しかったです。映像化とか漫画化とかメディアミックスの形は他にもあるけれど、朗読って、掻い摘んだりしないで作家が書いた文章をそのまま活かすわけじゃないですか。じゃあ朗読にふさわしい文章やストーリーってなんだろうと考えたり、『こういう風に読んでほしい』とディレクションをしたりすることによって、非常に奥行きのある表現が生まれてくる気がするんです。小説自体の可能性をより広げる芽みたいなものを、オーディブル、朗読に感じました」

 今回の依頼にあたって、三浦さんが選んだテーマは「書」だった。

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「耳で聴く読書だからこそ、目で認識する文字っていうものを題材にしたら面白いかもしれないと思って、登場人物の一人を書道家にしました。『書』というと、ちょっと古臭いイメージがあったんですが、作品展に伺って生で見るとすごく迫力があるし、美しいものだった。でも、それって考えてみれば当たり前なんです。書には何千年もの歴史があるわけで、そんな古臭いものだったら、こんなに多くの人が『やってみよう』とはならない。ただの伝達ツールとしての文字ではなく、人の心や世界観を伝えるための文字っていうのをみなさん追求していらして、それは本当にすごいことだなって思ったんですよね」

 物語は、老舗ホテルの従業員である続力(つづきちから)が、招待状の宛名書き、いわゆる筆耕の仕事を依頼するために、遠田書道教室を訪ねるところから始まる。現れたのは30代半ばの背の高い男・遠田薫。彼が子供たちに書道を教える姿を観察していた続だったが、自らの依頼の話を切り出す前に、「友人への手紙を代筆してほしい」という生徒からの相談に巻き込まれ、あれよあれよと手紙の文面を考えさせられることになる。

「ひとりが文面を考えて口頭で言い、もう一人がそれをせっせと綺麗な字で書く、というのは朗読で聞いても面白いかなと。この代筆の作業を通して、お互いへの理解が深まっていく様子を書きたかったというのもありました」

 タッグを組んで行った代筆は想像以上にうまくいき、このまま二人の元に代筆の仕事が次々と舞い込んでくると思いきや、遠田の過去が明らかになることによって話は急展開を見せる。

三浦しをんさん

「依頼をこなすごとにどんどん仲が深まり……という連作みたいな感じにもできるかなと思いましたが、私が書きたいところは実はそこではなかった。『書』というものを描きたいのと同時に、それを書いている遠田はどういう人なのかっていうのを、この話の中心にしたかったんです」

 次第に分かってくるのは、続と遠田がまったく違う環境で育ってきたということ。それゆえに補い合う関係になることができた二人だったが、遠田が打ち明けた過去に、続は大きな葛藤を抱えることになる。二人の関係の行く末とは。そして、重い過去を背負った遠田に救いは訪れるのか。ぜひその結末をたくさんの人に見届けてほしい作品だ。

「読むのがちょっと苦手で、耳から情報が入ってきたほうがいいという方も当然いらっしゃるはず。そういう方にも今回、私の小説を聴いていただけると考えると、すごくありがたいお話だったと改めて思いますね」

みうらしをん/1976年東京都生まれ。2006年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、12年『舟を編む』で本屋大賞、15年『あの家に暮らす四人の女』で織田作之助賞、19年『ののはな通信』で島清恋愛文学賞、河合隼雄物語賞を受賞。