…と思っていたら必ずしもそうではなさそうで…?
と、思っていたら必ずしもそうではないようだ。としまえんの南側に広がる静謐な住宅地。ここは「城南住宅組合」という。山形県米沢出身の人たちが中心になって、1924年に設立された。そして以後、一帯を別荘地として開発していったのだ。1924年というと、まだとしまえんは部分開園もしていない。藤田好三郎さんもまだ練馬城址を別荘として利用していた頃である。
1924年の前年には、関東大震災があった。関東大震災は、東京都心から郊外への移転を促した。としまえん南側の住宅地も、そうしたもののひとつだったのだろう。1921年に住宅組合法が制定されて、個人が集まって住宅地を開発することができるようになったのも大きく関係しているのかもしれない。
ただ、当初は藤田さんが練馬城址を別荘地としていたのと同じように、城南住宅組合も別荘としている人が多かったようだ。1929年の時点では、組合員数47に対して本宅を構えている人は11人に過ぎない。
それが、年を追うごとに組合員数も本宅として利用している人も増えていった。豊島園駅が開業してアクセスの利便性が高まったことも大きな効果があった。
戦後、住宅地は遊園地を飲み込んでいった
そして戦後になると、人口の急増によって練馬駅周辺の市街地が豊島園駅周辺にも拡大し、あっというまにとしまえん(と城南住宅組合)の周りもビッシリとした住宅地に生まれ変わっていった。埋もれていったというほうが正しいかもしれない。そうして、いまの豊島園駅の周辺の有り様が固まったのである。
関東大震災直後、郊外の別荘地として住宅地の萌芽が現れ、次いで遊園地・としまえんが開園。そこに豊島園駅が加わって、このみっつを核として豊島園駅周辺の町は形作られた。歩いても歩いても住宅地というのは、そうした歴史からすればあたりまえの風景といっていい。
1970年代にはとしまえんの内部に場外馬券場を設けようという計画が持ち上がったことがある。しかし、結果として周辺住民たちが強く反対して計画は頓挫している。それもまた、町の成り立ちに立ち返ればごく自然なことである。
いずれにしても、としまえんという遊園地はそうした町の歴史の中にあった遊園地である。いまのスタジオツアー東京にしても、非日常の空間。ただ、その傍らには、明確な住宅地という日常の空間がある。それがまた、絶妙なバランスで共存しているというのは、刻んできた歴史の中で育まれた、この町ならではの特徴といっていいのかもしれない。
写真=鼠入昌史
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