太平洋戦争末期、日に日に激しさを増す硫黄島戦。そこでは耳を疑うようなある命令があった――。硫黄島を実際に訪れた記者が上梓した『硫黄島上陸 友軍ハ地下ニ在リ』(講談社)より一部抜粋。米軍上陸直前まで硫黄島にいた元兵士の証言と共に、圧倒的な物量差で苦戦を強いられた日本軍の戦いを振り返る。(全2回の後編/前編を読む)
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激しい空襲で「目が飛び出る」
硫黄島戦は1945年2~3月の地上戦を一般に指すが、必ずしも正確とは言えない。それ以前から地上戦に先だって米軍は連日、空襲や艦砲射撃を日本側守備隊に加えていたからだ。
「私が島に着いたころ、1日4回の空襲がありました。現地の兵士たちは、それを『定期便』と呼んでいました。避難に慣れたもので、動じている様子はなかった。島の北部には電波探信儀(レーダー)があって、爆撃機が100キロ圏内に近づくと、元山飛行場の見張り所に連絡しました。見張り所の兵士は『180度方向! 敵編隊100キロ近づく!』などとメガホンで周知する。その後、80キロ、60キロ、40キロと近づくたびに周知の声が発せられる。20キロになったらサイレンが鳴り、皆、作業を中断してぞろぞろと防空壕に入っていった。さらに差し迫ると『ばくそーひらくー(爆倉開く)!』『ばくだんとーかー(爆弾投下)!』。そして、ピシャーという夕立のような音がする。爆弾が落ちる音ですよ。その音を、避難した壕の中で聞く」
米軍による空襲の頻度は増すばかりだった。
「壕の中では皆、うつぶせになり、両手で両目と両耳を覆う。耳を塞いでいても、鼓膜が破れんばかりの爆発音が轟きました。目を覆わないと、爆弾の衝撃で目が飛び出る、と教えられていました。近くに爆弾が落ちると、入り口からきな臭い爆風が入ってくるんですね。みんな我慢しましたよ。息が苦しくて。爆撃機が爆弾を落とし終えてUターンして帰っていくと、みんな壕を出て、深呼吸しましたね。12月末ごろになると、空襲は倍増しました。そのころになると爆撃機が消えた途端、また次の爆撃機が来ると知らされました。『情報! 情報!』って」
なぜか海岸に並べられ、標的となった戦闘機
「艦砲射撃も4回ありました。南の方からやってきて島の5000メートル手前から攻撃してきた。巡洋艦と駆逐艦。あまり大きくない。艦隊はいつも9艘でした。いつも同じルートでした。守備隊は反撃しなかった。無抵抗ですよ。だから艦隊は悠々と島を回っていましたね。低速で。完全になめきっているんですよ。護衛する戦闘機もなかった。1回の艦砲射撃はだいたい2時間でした。その間、ずっと防空壕に入ったきりでした。壕を掘る兵士たちも壕の中で休憩していましたよ。反撃は一度も見たことがないです。だからどこに砲台があるのかは分からなかったですね。艦隊が近づいても味方戦闘機は迎撃に行かなかった。空中待避です。舞い上がって砲撃中、(上空で)待避するわけです」