西さんは「妙な光景」を目撃したこともあった。
「本土から持っていった隼はみんな旧式でした。だから半分ぐらいは十分に使えなかったですね。故障した機体は全部、海岸沿いに廃棄するわけですよ。艦砲射撃でこの飛行機を撃て、というようにね。海に向かって置くわけです。ほかの被害を減らすためにですね。海岸に運ぶのを見ていましたよ。自分でプロペラを回して自走して行っていました。妙な話ですよね。敵に撃たれるのではなくて、故障が多かったですよ。海に並べたのは12月だったと思います。私が見たのは2~3機並べられた光景でした」
竹ざおを持った兵士たちも活躍
空襲のターゲットは主に飛行場だった。航空戦力の無力化を図るためだ。しかし守備隊の補修作業は見事だったという。
「空襲を済ませた敵が退散しますとね、もう飛行場に何ヵ所も大きな爆弾の跡があるわけですね。それを工兵隊20人ぐらいがトラック2~3台で乗ってきましてね、そして飛行場でトラックから飛び降りて、みんなでその穴埋めですよ。スコップをみんな持っていましてね、穴埋め。もう慣れたものですよ。そうすっと家の建物の1戸分ぐらいの穴が空いているのがですね、20人で取りかかって穴を埋めました。たちまち元の飛行場になりました。そしてロードローラーで押し固めるわけですね。すると元の飛行場になるわけですよ。ロードローラーは1、2台ありましたね」
工兵隊の中には穴埋め以外の作業を行う者もいた。
「(米軍が落とした中に)時限爆弾があったんですよ。10分とか20分とか。時には10時間ぐらいたってから。我々が晩に寝ているときもですね、あちこちでバーンバーンと破裂するんですね。どこに落ちているか分からないでしょ。いつ爆発するか分からない、危ないでしょ。トラックには、(穴埋め作業の兵隊と)別の兵隊が2、3人乗っていましてね。長さ3メートルぐらいの細い竹を持っていた。竹の先頭に小さな赤旗が付いていて。その竹を持って、時限爆弾が落ちている場所を探るわけですね。兵隊は慣れていて、どこに落ちているか分かるんですね。そいでそこに竹ざおを(目印として)刺すんですよ」
こうした爆弾の雨は連日続き、やがて西さんはこんな思いになったという。
「(滑走路に落としてもすぐに修復されるから)米軍が落とす爆弾はほとんど無駄弾ですよ。しかし、米軍がいくら落としても無限に爆弾を持っているわけですね。いかに物量が豊富か分かるわけですよ。そうした現実を見たときに、敗北を直感しましたね」
硫黄島には川がない。2万以上の兵が苦しめられた渇き
当時の守備隊兵士たちの心境について、西さんはこう振り返った。