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「あれだけ空襲してくるのだから、いずれ米軍が上陸するのは明らかでした。でも、島の兵士たちの雰囲気はあまりにも和やかなんですよ。妙な言い方ですけどね。地上戦になったら連合艦隊が救援に来てくれるとか、もうあんな状況では援軍が来そうな雰囲気ではなかったですよ。諦めというんじゃなくて、その時、その目の前の任務に命令通り、精一杯取り組むだけです。悲観的な会話は全然なかった。みんなこの島を守る戦いで骨を埋める覚悟ができていたと思います」

 西さんたちは米軍の攻撃以外でも苦しめられた。喉の渇きとも戦い続けたのだ。

「硫黄島には川がありません。だから飲み水には苦労しました。私たちの部隊の補給担当者は毎朝、みんなから水筒を集め、それに給水所で水を入れて、各人に返していました。1日の飲み水はこれがすべてです。水というよりお湯でした。貯めた雨水を煮沸したのでしょうね。雨水頼りの島ですが、私が島にいた約40日の間、土砂降りはたったの一度でした。2万人以上の兵がいた島です。よくそれだけの分を貯められたなあと思います」

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 飲み水だけでなく、生活用水の確保も容易ではなかった。

「私たちの部隊は壕を掘る作業がありませんでしたが、硫黄島の多くの部隊は、地熱と戦いながら連日連夜、壕を掘り続けていました。水のない中で、本当につらかったと思います。ちなみに硫黄島で風呂に入ったことは一度もありません。トイレは、掘っ立て小屋みたいのがありましたが、どのように衛生を保っていたかはよく覚えていません」

極めて不衛生な環境でシラミも発生

 水不足で洗濯もままならない中、空と海からの砲爆撃で毎日、全身砂ぼこりにまみれた兵士たちは、極めて不衛生だった。

「シラミには悩まされました。12月の途中から。なんかむずむずと気持ち悪い。夜になって寝ようとしても、かゆくて眠れないのですよ。私たちの壕には電灯が付いていました。そこでみんなで脱いで、シラミをつぶしました。将校も兵隊も。その体で本土に帰ってきましてね。下着は全部、お湯で煮たんです」

 西さんは、水不足の記憶に関連して、こんな話も聞かせてくれた。硫黄島の戦いと言えば、島南部の摺鉢山に米軍兵が星条旗を掲げようとしている、有名な写真を思い浮かべる人もいるだろう。この旗ざおについてこう話した。