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——高校はどうされたのでしょうか。

豆塚 当初は復学を目指していたんですが、学校はバリアフリーに対応していなくて……。いろいろと話し合いもしましたけど、学校側と折り合いをつけることができず、結局、自主退学することになってしまいました。単位は生物以外全て取れていたので、今思えば、せめて卒業だけでもさせてくれたらよかったのに、と思います。

 高校を退学したあとは、独学で高卒認定試験に合格して。施設を退所したあとは別府市内の「自立生活センター」に就職して、1人暮らしを始めたんです。それが18歳のときですね。

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詩人、エッセイストとして活動するようになったきっかけ

——現在は詩人、エッセイストとしても活動されています。詩を書き始めたきっかけは何だったのでしょうか。

豆塚 本格的に詩などの文芸作品を書き始めたのは、高校1年生のときに文芸部に所属したのがきっかけです。県内の文芸部員が集まる合宿で知り合った他校の先生が、実は著名な詩人だったみたいで。私が事故で入院しているとき、その先生が文芸部のOBたちに声をかけて手紙をくれたんです。

 お見舞いに来てくれた同級生たちからは、当然といえば当然ではあるのですが、「いつ戻ってくるの?」「また歩けるようになるんでしょう?」なんてことばかりを聞かれて、どう返せばいいのか正直戸惑いました。でもその先生は、今まで通りの「私」として扱ってくれたことが嬉しかった。いつか詩集を作って、手紙を書いてくれた人たちにお礼を言いたい。そんな使命感が芽生えて、また詩を書くようになりました。

——現在の活動に至るまでには、どのような経緯があったのですか。

豆塚 19歳の頃に知り合った「村谷さん」という方の存在が大きいですね。私が施設を出て別府で1人暮らしを始めた頃、家の近所にある、村谷さんが経営している喫茶店に入ったんです。彼が本読みだと知って自作の詩集を見せたところ、「すごく良かったよ」と褒めてくれたんですよ。そして「これいくらするの?」とまで聞いてくれて。

 

 ホチキス留めしただけの手作り感満載の簡素な詩集だったので、「お金は要りません。差し上げます」と伝えると、「魂を削って書いているんだから、ちゃんと対価をもらいなさい」と言ってくれて、お金を払ってくれたんです。

 しかも村谷さんは、「これはホチキス留めだけど、ちゃんとした本として作ったほうがいいよ」とまで言ってくれました。私はそれがきっかけで、デザインを学べる学校に通って、自費出版で詩集を作り始めました。

——村谷さんとの出会いが、豆塚さんの人生に大きな影響を与えているんですね。