つづけて「S銀行の人が家に来た」と言うので、てっきり定期預金の勧誘でも受けたのかと考えた。S銀行は実家近くにあり、年金の振り込みから公共料金の引き落としまで任せるメインバンクだ。時折訪ねてくる銀行員はティッシュペーパーだのカレンダーだのを手土産に、毎月1万円の積み立て定期などを勧めてきた。ところが今回は「ドル」だという。
「今、定期なんて預けてても利息がつかないだろ。だからほかの貯金で、ドルでやりませんかって言われてそうしたんだけど、何がなにやらさっぱりわからん」
「ドル? 外貨預金のこと?」
「いやぁ、全然わからない。でも850万円の定期を解約して、S銀行の人が勧めるドルにしたんだ。それで俺が死んだときの保険だかなんだかになるらしい」
850万円、その金額に腰が抜けそうになった。おまけにドルとなれば、投資リスクのある金融商品の可能性が高い。詳しい話を聞こうにも、当人が「さっぱりわからん」でははじまらない。
私は翌日の仕事をキャンセルし、早朝の新幹線に飛び乗って実家に駆けつけた。息つく間もなく父の手元にある契約書を確認すると、払い込んだ日本円を米ドルに換え、ドル建てで運用する生命保険だとわかった。為替相場の変動により高い利息で返還される可能性はあるが、当然ながら元本割れし大きな損失を被るリスクもある。契約を無効にできるクーリングオフ期限はその日だった。
「どうしてこんな危ないものを契約したのよ。これは預金じゃないの。お金が減ってしまう可能性がある商品で、お父さんみたいな投資経験もない年寄りが扱えるものじゃない」
落ち着こうとしても声が裏返り、つい詰問調になる。いつもはすぐさま怒鳴り返してくる父もさすがに不安なのか神妙な面持ちで、「俺はワケがわからん。どうすりゃいいんだ。こんなものやめたいよ」と繰り返す。
日々のほころびが広がり、一気に崩れた気分だった。外から見れば自立しているような、自分らしい生活を楽しんでいそうな高齢者は、本当のところ決して安泰ではないのだ。
850万円をめぐる攻防
契約書を確認した私は父を伴い、すぐさまS銀行に向かった。窓口で外貨建て保険商品を勧誘した銀行員の名前を出し面会を求めると、一時間近く経ってから当人が現れた。差し出された名刺にはAという苗字と「課長」の肩書がある。
「先日Aさんが父に販売した外貨建て保険のクーリングオフをしたいんです。今日が期限なので、とにかく急いで手続きしていただけませんか」
私の言葉に、A課長は「ご解約はご本人のご意思ですか」と口にした。当然と言えば当然だが、父のお金をどう使おうが、それは父の自己決定による。
「いやぁ、私はドルだのなんだのと言われてもさっぱりわからなくて。せっかく勧めてもらって悪いんですけど、まぁお金は普通預金に入れておいてもいいわけだしね」
バツが悪そうな顔をした父に、A課長は畳みかけた。
「先日の契約時には、特にご不満な様子はなかったですよね。ご納得の上で購入いただいたと思ってますし、どうして気が変わられたんですか。ご家族の反対があったとしても、決定権はご本人にあるんですよ」