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浴室の一大事

「今日は風呂に入りたいよ」

 父からそう言われたのは、熟練ヘルパーにインセンのやり方を教わった日の夜だった。このころ、父はかろうじて自力でトイレに行き、2階の寝室から一階の茶の間への移動もできていた。

 あらたなケアプランで週に2度の訪問入浴が計画されていたが、開始まではまだ数日かかる。それでなくてもこのところ体のつらさから臥せっていたし、インセンを先送りしたい私にすれば入浴を助けるほうがずっとマシだ。

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写真はイメージ ©️AFLO

 早速準備を整えると、裸になった父は自力で湯船につかった。イヤでも陰部が目に入るが、こういう場面ではやむを得ない。そのまま洗髪し、髭剃りを手伝い、さぁそろそろ上がりましょうとなって一大事が起きた。父が浴槽の縁をまたげないのだ。

 昔ながらの実家の浴室は、深いステンレス浴槽で手すりもない。入るときは洗い場から足を下へ向けて浴槽をまたげばいいが、反対に出るときには片足を上げて浴槽をまたぎ、もう片方の足で体を支えなくてはならない。この動作が思うようにいかないのだ。

 元気な人には苦もないことが弱った人にはむずかしい。その現実を知らなかった私は、慌てふためいて父の体を引っ張り上げようとした。

 ところがその私も、2019年末に交通事故で負った腰椎圧迫骨折の影響で腰に力が入らない。事故以来、重い物を持つことは避けてきたが、「重い人」には意識が向いていなかった。

「お父さん、ほら私につかまって、もう少し踏ん張ってよ」

「ダメだ、足が上がんないよ、助けてくれぇー」

 裸の両脇に腕を差し込み、よっこらしょ、よっこらしょと気合いを入れても、父はズルズルと滑り落ちるように戻ってしまう。私は服のまま湯船に飛び込み、「おんぶ」の姿勢で担ぎ上げようとした。それでも父の体はずしりと重く、こちらのほうが耐えかねてひっくり返りそうになる。

「ハァー、ハァー、ハァー」

 どんどん荒くなる父の息遣いを聞きながら、私のほうも焦りで激しい動悸に見舞われ、2人そろってほとんどパニック状態だ。

みずからの体力や知識のなさを痛感

 そこからどうやって引っ張り上げたのか覚えていない。火事場のバカ力と言えばいいのか、無我夢中で力を振り絞るうち、ようやく洗い場に戻すことができた。そのまま脱衣所の床に寝かせ、大急ぎで身体を拭く。父は全力疾走したように激しい呼吸をし、顔面蒼白のままグッタリと動けない。それでもしばらくするとジュースを口にし、私の手を借りながら肌着と紙パンツ、ジャージの上下を身に着けた。

「さっきは死ぬかと思ったよ」

 這うようにして2階の寝室へ戻った父がつぶやいた。それは私のセリフだよ、と言いかけて、一気に疲労が襲ってきた。

 在宅死と聞けば、ベッドやふとんで安らかに、眠るように亡くなる姿をイメージする。けれどもひとつ間違えば風呂で、トイレで、予想もしなかった最期が訪れることだってあるはずだ。

「お父さん、あのまま素っ裸で死ななくてよかったねぇ」

「まったくだ、あんな恰好じゃ恥ずかしくて困っちゃうよ」

 軽い笑いを交わしながら、内心では怖くてならなかった。みずからの体力や知識のなさを痛感し、本当に父を看取れるのかと大きな不安に包まれる。

 インセンへの抵抗感につづいて入浴でも大失敗、湯船に飛び込んでずぶ濡れになった服の冷たさがいっそう堪えた。