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取り戻したかった唯一のもの
清原は覚せい剤によってあらゆるものを失った。
社会的地位、財産、仕事、常人の想像を絶する、あまりに大きな損失であり喪失である。ただ、それらを取り戻そうという執着は驚くほど薄かった。
保釈されたあと、仕事にはむしろ消極的であったし、将来的な活動について考えることもほとんどしなかった。
プロ野球界にも関心を示さず、試合中継を見ることもあまりなかった。
そんな中でただひとつ特別な関心を見せたのが少年野球、高校野球についてだった。
「〇〇というチームにすごいバッターがいるらしいです」
「〇〇高校はこれから強くなりそうです」
どこで見たのか、だれから聞いたのか。人や社会との接触を絶っていたはずの清原がなぜか、詳しい情報を持っていた。
おそらく、その向こうに2人の息子を見ていた。
「もう一生、息子たちには会えないと思います……」
絶望を口にしながらも心底では一縷(いちる)の望みを捨てていなかった。
それは、この4年間で清原が自ら執着をもって取り戻そうとしたほとんど唯一のものだった。
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とびっきりのホームランを見せたかった
ぼくは決していい父親ではありませんでした。家族には辛い思いばかりさせてきたと思います。息子たちからはいつも、思いやってもらってばかりでした。
現役時代、オリックスで左膝の大手術をしたとき、復帰に向けてリハビリをしているぼくのことを、まだ物心ついたばかりの長男がよく励ましてくれました。
覚えたばかりの字で手紙を書いてくれました。ぼくにプレッシャーをかけないようにと思ったのでしょうか。「ホームランをうって」と書くのではなくて「つらいとおもうけど、リハビリがんばってね」と、そういう言葉ばかりが書かれていたんです。
もっと甘えてわがまま言って一緒に遊んでほしかった年ごろだったと思いますが、子供心に気を使って、わがままを言わないようにしているのも伝わってきました。
夏休みなんか遊んでほしかったはずなのに、そういうことも言わなかった。
ぼくがもうプレーすることさえ無理だと言われた手術を乗り越えて、最後の最後まであと1本ホームランを打ちたいとこだわったのは、息子たちにそれを見せてあげたかったからなんです。子供たちの脳裏に父親がすごいという記憶を残すための、とびっきりのホームランを打ちたかった。
でも結局、ぼくはその1本を打てずに引退試合を迎えました。セレモニーの最後に子供たちがグラウンドに来て、花束を渡してくれたんです。
ぼくが泣いているのをみて、ふたりとも泣いていました。
長男はいろいろなことを理解していたのでしょう。泣きながら抱きしめてくれて「よくやった」という感じで、ポンポンと背中を叩いてくれました……。今、思い出しても涙が出てきます。