起床も就寝もラッパ、常に廊下は“走る”…「病院といっても海軍ですから」
――病院での生活はどのようなものでしたか?
土屋 朝は起床ラッパで起こされて、寝るのも消灯ラッパで。病院といってもそこは海軍ですから、当然のように海軍式なんです。行動もすべて軍隊式で、廊下は歩いちゃならんと。走っていくんです。屋根と手すりがあるだけの吹きさらしの廊下を、雨の日も雪の日も走っていました。若かったからできたんでしょうねぇ。
――食事はどうでしたか?
土屋 食事は「伍長食」っていって、下士官食でした。入院している兵隊さんとは食事からして違うんです。献立はいろいろあったと思いますが、覚えているのは海軍カレーとかですねぇ。味は今とそう変わらなかった気がします。そこでいっぱい食べたからか、今ではカレーはあまり好きじゃないんです(笑)。
――戦争が激しくなってくると、食料難で食事の質も悪くなったと聞きますが、そういう実感はありましたか?
土屋 海軍はそんなに食事の質を落とさなかったんですよ。だから私は戦争中、食べ物で苦労したことはありません。担当したのも内科病棟の症状の軽い患者さんが入るところだったので、仕事の面でもつらい思いはあまりせずにすみました。いいところに入って幸せだったと思います。
「非番の日の外出は、海軍式に上陸といっていました」
――非番の日は何をしてましたか?
土屋 外出です。海軍式に上陸といっていました。横浜の街にはよく出ましたね。この外出も、遠くへは行ってはいけないんです。東京とかには特別な許可を取らなければ出ちゃいけない。
空襲のときにすぐに隊に戻れるようにと、外出範囲が決まっていたんです。横浜への外出時に空襲があって、居合わせた兵隊さんに防空壕へ誘導してもらったことを覚えています。私たちは外出時には紺の制服に赤十字をつけた日赤の制服で、従軍看護婦と一目でわかる服装だったので、気を使ってくれたんだと思います。
〈開設当初は諸設備が建設途上だったこともあり、病棟を包む雰囲気はまだのんびりしていた。後に仮設病棟が建設されることになる裏山へ同僚たちと散歩に行き、山百合を摘んだり、バレーボールに興じる余裕があったという。
しかし、やがて病棟が出来あがってくると傷病兵が続々と送り込まれてくるようになった。当初は横須賀海軍病院からの転院者だったが、やがて戦地からも直接送り込まれてくるようになる。〉
激戦の各地から戻ってきた「病院船・氷川丸」
――元は日本郵船の貨客船で、太平洋戦争中に海軍に徴用され、激戦となった南方戦線の各地などから病院船として傷病兵や患者を日本まで輸送した「氷川丸」にも、乗られたことがあるとお聞きしました。