土屋 いまも横浜港にある氷川丸は当時、病院船でした。横須賀に戦地から戻ってきて、沖に停泊している氷川丸に患者を迎えに行くんです。手旗信号で「担送(担架で運ぶ患者)○名、護送(付き添いが必要な人)○名、徒歩患者○名」と陸に連絡がきて、氷川丸までは平らな鉄板を張った台船に乗って行きました。
患者さんは鉄板の上に毛布を敷いただけの状態で寝かせられました。空襲を避けるため、夜間、目立たぬようライトを消したトラックで行ったこともあります。
やせ細り栄養失調の状態の患者たち。妄想にとりつかれて…
――氷川丸からいらした患者さんのなかには、戦傷のひどい方も多かったのでしょうか?
土屋 そういう負傷はあらかじめ病院船で適切な処置をされて、包帯を巻いた状態で送られてきますから、あまりむごたらしい感じはありませんでしたね。病院では私は内科の12病棟といって、いちばん軽症者の病棟でしたし。たいへんだったのは患者さんの衣服についたシラミの煮沸消毒くらいで。
それでも、私が担当する患者さんたちで、レイテとかフィリピンのほうから戻ってきた患者さんは、みなやせ細っていて栄養失調の状態でした。肉体だけでなく精神も病んでしまった方もおり、こういった患者さんは「不慣化性全身衰弱症」といわれていました。強い日光で刺激しないよう、病室に昼でも暗幕を張って、低体温症の治療のために暖房を強めにしてコニャックを飲ませたりしていましたね。
精神状態が不安定で、急に暴れ出したり泣き出したり……。 それでも何日かしてだんだんと回復してくると、戦地で食べられなかった反動で、食事のときは皆さん夢中で食べていましたね。
ただ、不慣化性全身衰弱症の患者さんのなかで、忍者がドロドロと出てくるとか、「不破数右衛門」(忠臣蔵四十七士の一人)が来るとかの妄想にとりつかれた方がいて、日々訴えてこられたので、それは印象に残っています。
私語が厳禁の軍隊。患者と話し込むと…
――看護した皆さんとはどんな話をされましたか?
土屋 軍隊においては私語は禁止なんです。それに、私たち看護婦は下士官待遇ということでわりとえばってて、兵隊に命令する方だったから(笑)。ですからあまり患者さんと個人的に話したりはしませんでしたね。
同僚のなかにはベッドに腰掛けて患者さんとの話に興じる人もいましたが、そういう人は婦長(師長)が見ていて原隊(日赤)に帰されるんです。私の同僚も3名が帰されました。それも、正門から帰るな、裏門から帰れといわれていました。
婦長はサエキさんという人で、厳しいお人でしたが、私は同郷だったためか、わりとお目こぼしされていたような気がします(笑)。 戦後、私が県庁に勤めたときに、訪ねて行ったこともありますよ。