すぐに地面に伏せましたが、弾丸は5メートル間隔くらいでバリバリと砂煙を上げながら着弾、すぐ脇を通りすぎていきました。解除後に病棟に戻ると、手の指くらいの大きさの弾丸が落ちていましたね。
――3月10日の東京大空襲も強く印象に残っていらっしゃるそうですね。
土屋 その日は避難するとき、防空壕の入り口で空を見上げると、東京の方角が真っ赤になっているんです。そこにB29だという大きな飛行機が飛んでいる。なんともいえないような光景で、当時、砂町(現在の東京都江東区東部)に姉が住んでいたので気が気ではありませんでした。
空襲後の東京。焼け野原、屍、そして腐臭…
――安否を確かめに行かれたのですか?
土屋 その後の最初の外出日に病院から特別許可をもらって東京へ行きました。東京駅から砂町までは徒歩です。道すがらはずっと焼け野原です。防空壕の入り口に手をかけたまま死んでいる人がいたり、途中渡った川の中では、材木の上に大勢の人が折り重なって死んでいるんです。
兵隊がそれを大きなピンセットのようなものではさんで持ち上げて、放り投げるようにトラックに積んでいく。地獄絵図でした。あたりにはなんともいえない腐臭が立ち込めていました。たどりついた砂町も、被害を受けてはいましたが、幸い姉も姉の家も無事で胸をなでおろしました。ただ、あの腐臭は病院に戻ってからも2週間以上も鼻について離れませんでした。
終戦のその瞬間「ラッパ吹奏と同時に軍艦旗を降ろしたんです。降ろされていく旗を見ながら…」
〈戦いは激しくなるばかりで、一部の患者の地方分院への疎開転院も相次いでいたが、新規入院患者も運ばれてくる。土屋さんたちは空襲におびえながらも日々の勤めを必死にこなしていた。
そんな中で、8月には広島・長崎に原爆投下。同9日には、「長崎に敵の新型爆弾が投下された。外出には充分注意せよ」との訓示があったという。そして、いよいよ8月15日……。〉
――当時、本土決戦などという言葉も叫ばれていましたが、なにか体制が変わったなどということはありましたか?
土屋 特になかったですね。訓示のあった翌日には普通に外出してましたし。“半舷上陸”といって、班のうち半分ずつが交互に外出できたんです。もっとも、門限までには帰って来なければならなくて、行ける範囲も横浜くらいまででしたが。
――8月15日、終戦の日のことを教えてください。