常に危険と隣り合わせ、秘宝をめぐって冒険活劇を繰り広げる「インディ・ジョーンズ」のような考古学者は、フィクションの中にしか存在しないのだろうか。いいや、考古学の調査は「けっこう命がけ」なのである。

 ここでは、3人の考古学者が海外で発掘調査をしていて体験したエピソードを振り返った『考古学者が発掘調査をしていたら、怖い目にあった話』(ポプラ社)より一部を抜粋。著者の1人、角道亮介さんが墓室の図面を描いていて「これはまずい」と思った体験とは――。(全3回の2回目/#1を読む

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謎の電話

 当時、私は北京より遥か西、陝西(せんせい)省の遺跡見学のために2週間ほど宿舎を離れる調査旅行の計画を立てていた。北京大学の指導教授から、居留証の手続きが終われば遺跡の見学に来るように言われていたためである。

 周公廟(しゅうこうびょう)遺跡と呼ばれるその遺跡は北京から夜行列車に乗っておよそ半日、西安市から車で2時間ほどの位置にある。ここは西周時代の大墓がいくつも見つかった遺跡であり、私の専門ど真ん中の遺跡でもある。

 ちょうどこの時、私の日本の恩師の一人がちょうど周公廟遺跡の調査にいらっしゃっていたため、その調査期間にあわせて遺跡見学に行こうと思ったわけである。

 その時はまだ、留学最初の調査旅行だと期待に胸を膨らませていた。

 出発の前々日、恩師の調査に同行して先に現地に入っていた先輩から電話があった。

「詳細は伏せるが、冬物の衣類の準備をしてきた方が良い」という謎の電話である。

 時は9月、内陸部の遺跡とはいえ、マフラーや手袋が必要になる季節ではない。訝しんでその真意を尋ねても、「来ればわかる」としか教えてもらえない。居留証の手続きを終えた私は、とりあえず素直に冬物をスーツケースに詰めながら、一抹の不安とともに北京を出発した。私は知る由もなかったが、指導教授と恩師の首脳会談によって、この時すでに私の留学生活の命運は決まっていたのである。

 現地到着早々に指導教授から言い渡されたのは、「春節(しゅんせつ)を迎えるまでの5か月間、この現場に入りなさい」というありがたいお言葉だった。発掘現場に入ることはやぶさかではないが、まさか半年近く北京を離れるとは思っていなかった。

 扇風機も買ったばかりだし、相部屋の彼にもろくな挨拶もしていない。心の準備ができていない。なにより語学が全くダメなので、まともな中国語もまだしゃべれない。指導教授も北京に戻るので、現地に知り合いは一人もいない。大丈夫か。留学早々の「下放(かほう)」生活は、こうして突然始まった。