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賑わい始めた稚内の町。「そんな商店街を歩いていて目に付くのは、ロシア語だ」

 この間には2度にわたって大火に見舞われるなど試練もあったが、樺太へ渡る人が増えるとともに稚内の町も賑わいを増す。駅周辺には多くの旅館が建ち並び、劇場(映画館)やカフェー、バーなども現れた。

 函館大火で函館を去り、新たな働き場を求めてたどり着いた女性たちも多かったという。稚内駅も、宗谷本線・天北線の駅の中では穀倉地帯の中心だった士別駅と鉄道収入の1位・2位を争うなど、いまの1面1線、数えるほどしか列車の来ない駅からは想像できないほどの隆盛ぶりだった。

 稚内が南樺太連絡の拠点だったのは、終戦までのごく短い期間に過ぎない。それからもう80年近くが経ったわけで、その当時の隆盛ぶりを今に伝えるものは少ない。駅の近くを歩いてみると、ビジネスホテルが建っている一帯には地元の人が通うような小さなスナックや居酒屋が集まる一角。また、そのすぐ南には歩道部分に屋根が架けられている商店街も南北に延びている。

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 その入口付近、稚内駅の向かいのスーパーマーケットの脇には、二宮金次郎の像。調べたわけではないので断定はできないが、きっと日本最北端の金次郎だろう。

 

 そんな商店街を歩いていて目に付くのは、ロシア語だ。商店街の店の名前を意味しているのか、売っている商品のジャンルを説明しているのかはよくわからない。ただ、歩道に架けられた屋根の上には、決まってロシア語が書かれている。

 

 ロシア語を目にするのはそればかりではない。フェリー乗り場の案内から道路上の交通案内まで、いたるところにロシア語がある。英語が併記されているのは日本中どこでも同じだが、それに加えて稚内ではロシア語も、というわけだ。南樺太は終戦後にソ連、そしていまはロシアの領土となったわけで、稚内は宗谷海峡を隔ててロシアと国境を接する町なのである。