冬のこのあたりは本当に寒い…!
そんな港の北の端には、大きなホテルが聳え立ち、周囲は公園として整備されているようだ。海が見える公園を歩くと、かの昭和の大横綱・大鵬幸喜の上陸の地記念碑があった。
巨人・大鵬・玉子焼きの大横綱は、当時、本領だった樺太(サハリン)の出身で、終戦時に小笠原丸に乗って稚内に引き揚げてきた。この小笠原丸は、稚内に立ち寄ったあとで小樽を目指す途上、ソ連の潜水艦の攻撃を受けて留萌沖で沈没した。大鵬一家は家族の船酔いがひどく、予定を変更して稚内で下船していたために難を逃れたのだという。
そんな歴史の1ページをのぞき見し、さらに港の北の端を歩く。大鵬幸喜上陸の地の碑のすぐ北側には、太い円柱に支えられた半円形、巨大なドーム状の防波堤が目に付く。まるで神殿のような雰囲気を残す防波堤は北防波堤といい、昭和の初めに作られた土木遺産のひとつだ。
最果ての海はたいそう厳しい。特に北からは強い風が吹き付けて、冬になるとその風に乗って流氷が湾内にも入り込む。そうなると船は港に入れなくなってしまう。
港町であることが稚内という町の本質であるならば、その本質そのものが揺らぐほどの大問題。いくら鉄道が通っていても、港が機能しないのではまったく心許ない。そうした事情を受けて、港を守るために建設されたのが北防波堤だ。
1920年に着工、2度にわたって工期が延びるなど難工事になったが、最終的には1936年に完成した。ドーム型の屋根は、北からの波浪に耐えるべく設計されたもので、いまでも稚内のシンボルになっている。港町としての稚内を、身体を張って守っている防波堤なのである。
約100年前に開業した「稚内」
実は、かつて稚内駅の線路はこの防波堤の下まで伸びていた。稚内駅という名前の駅がはじめて開業したのは1922年のことだ。ただ、このときの稚内駅は町の南の外れ、いまの南稚内駅の場所に設けられた。
その翌年、1923年には稚内と樺太・大泊(現在のサハリン・コルサコフ)を結ぶ航路が開設されたが、乗り継ぐ人々は当時の稚内駅から港までの約1.5kmを歩かされていた。
そこで線路が港に向けて延ばされて、1928年に稚内港駅として開業したのが現在の稚内駅だ。ついで1936年に北防波堤とその下の桟橋が完成すると、防波堤直下までさらに延伸。1938年に稚内桟橋駅が開業する。
これにより、稚内桟橋駅から樺太に向かう稚泊連絡船に直接乗り継ぐことができるようになった。その頃の南樺太は日本の領土であり、新天地として南樺太に夢を求めて移住する人も多かった。かくして、稚内の町は鉄道と樺太航路の連絡の拠点というあまりに大きな役割を基礎として、発展を見たのである。